「五円効果と篁(たかむら)先輩」(福田 文庫)

           1

 アルバイトがようやく終わり、私、清水一は店を出た。
 高校二年から続けているこの喫茶店「空の雫」でのアルバイトも最近ではようやく板に付いて来たらしく、小暮店長からは「あそこよりもこの店をお前に継がせてやる」と言われることも多くなったが、曖昧に笑ってお茶を濁しているのが現状だ。
 大学は夏休みの真っ只中で、大半の大学生は帰省をしている。私も急いで商店街に行かなくてはならないのだが、店の向かいにある煙草の自動販売機にはちゃっかり立寄る。煙草を切らしてしまったのだ。成人識別カードをかざして商品を選んだ。高校の時には自分が煙草を吸うようになるとは思いもしなかったが、今では一日に一箱は空にしてしまう自堕落ぶりである。高校時代の自分が今の私を見たらさぞ嘆くことだろう……あんな事件が起こったというのに、よく暢気に煙草なんて吸えるもんだ、と。
 今でこそ煙草一箱買うにも成人識別だなんだと手間の掛かる世の中になったものだが、あの当時はまだ誰でも、それこそ高校生であっても煙草を買うことが出来たのだ。
 そんな高校二年の秋に起こった、一人の男子高校生が自動販売機と五円硬貨三枚に全てを託したあの復讐を……私は思い出していた。

           2

 私がその光景を目の当たりにしたのは、放課後に喫茶店「空の雫」でアルバイトをしている時であった。
 私の働いているこの店は、住宅街と商店街のちょうど中間にあり、店の前には車道を挟んで一台の自動販売機が設置されているのだが、そこに男子高校生が何を買おうかと立ち止まっているのだ。これで、その男子が品定めをしているものが缶ジュースであったならば、私はグラスを磨く手を止めたりはしない。この店のマスターである小暮店長は、本人はアルバイトを始めてそう長くない自分に店を任せてパチンコ屋に駆け込む体たらくであるものの、従業員の勤務態度には非常に口うるさい。だがそれでも私がその自動販売機の前に立つ男子を見つめるからには、彼の選んでいる商品が未成年者には購入が固く禁じられている煙草である、というのが一つの理由であった。
 ただ、私も未成年者の喫煙を見つけて咎めるほど、正義感が強い訳ではない。学校指定のブレザーに袖を通したまま、自動販売機の前で硬貨を投入している男子が自分と同じ紫馬肥高校の生徒であったとしてもだ。ただ最近、うちの高校では野球部の部長が喫煙騒動を起こしたばかりだったので、何も教師や保護者の目が厳しくなっている時くらいは煙草くらい我慢出来ないものなんだろうかと思う程度であった。
 ならばどうして私はこうまでして、食い入るように高校生の不良行為を見届けているのか。それはその男子の行動に不可解な点があるからだった。そしてそれがもう一週間は続いていると来れば、これはもうミステリと言っても過言ではないだろう。いや、ないに決まっている。ここが極めて重要なのだ。
 そうこう考えている内に、男子は煙草を購入したのだろう。取り出し口に手を突っ込むと、どことなく悠然とした足取りで自動販売機を後にして行った。これもまた一週間続いた一連の流れである。そして今まで通りであるならば、現場にはあるものが残されているのだ。私は店に一人しかいないカウンター席の常連客に断りを入れると、店の外へと飛び出していった。一応は左右を確認して道路を渡り、目指すは自動販売機の釣銭返却口。ささやかな期待を胸に指を差し込むと、そこには確かに三枚の硬貨が残されていた。
 やはり不可解だ。これはもう、ミステリである。私はそれを再確認すると、急いで店へと引き返した。三枚の五円硬貨を握り締めたまま。

           3

「どうです、不可解じゃないですか?」
 店に戻った私は、カウンター席に座る一人の常連客である女性に例の五円硬貨を突きつけた。
 店の入り口から一番手前、窓の外がよく見えるカウンター席がその常連客の指定席だ。決まって放課後に立寄るので紫馬肥高校の制服を着ているが、もし私服でここに座っていれば大学生に間違われてもおかしくはない。どこか大人びた魅力を持っているのだ。
だが清楚さの象徴であるような黒髪を腰まで伸ばした彼女の切れ長な瞳が見つめているのは残念ながら私ではなく、いつも手にした文庫本であった。本にカバーを掛ける趣味はないらしく、常にむき出しのままで手にしているその文庫本はもれなく推理小説ばかり。
「……別に。普通の五円玉じゃないかしら? もしコインマジックかなんかやるのだっていうなら遠慮しておくわ。私、手品嫌いだから」
 文庫本から顔も上げずに、愛想のない返事が返ってきた。ホステスの気を惹く中年じゃあるまいし、誰もこんなところでコインマジックを披露するつもりはない。というか、この人は恐らく私の話をまるで聴いていなかったのだろう。私はもう一度気を取り直すと、
「篁先輩、俺の話をちゃんと聴いてくれていました?」
「んー……」
 あくまでも目は活字を追いかけたまま、篁先輩は一頻り唸ると、
「これはもうミステリですよ、篁先輩……までは聴いていたわ」
「それ、まるっきり聴いていないってことじゃないですか」
 思わず非難めいた声を上げてしまう。すると篁先輩はパタンと文庫本を閉じると、ようやく私の顔を見上げて呟いた。
「だって、聴く気ないもの」
「そんなこと言わないで下さいよ。せっかく先輩が興味ありそうな話なんですよ」
 そう。私があの男子高校生を見つめ続けていた最大の理由はここにある。
 私の目の前に座っている篁三世さんは同じ紫馬肥高校の先輩であり、同じ推理小説研究部に所属している……いや、正確に言えばしていた。研究部は昨年度、廃部となった。その理由は部員の不足に尽きる。去年入部したのは先輩目当てという不純な動機の私一人だけだった。
「清水君がそこまで言うなら聴いてあげても良いけれど……私が本を読む手を止めてまで興味深い出来事なんでしょうね?」
 そうやって念を押されると、私は思わず言葉に詰まってしまう。先輩は大変な読書家であることは研究部の時からよく知っていた。そんな先輩が聴いてもなお不可解さを保てる出来事であるのかと問われると、正直なところ、私の自信はグラグラと揺らめいた。だが、篁先輩は薄紅色の唇をほんの少しだけ吊り上げると、
「……冗談よ。丁度この本も読み終わったところだし、暇つぶしにでも聴いてあげるわ」
 どうやらからかわれていたようである。だがしかし話を聴いてくれることには変わりない。店は相変わらず閑散としており、お客さんは篁先輩だけ。仕事をしているふりをしながら長話をする格好のチャンスだ。
「ええと、それじゃあどこから話をしましょうか?」
「最初から。さっきは小説が佳境で清水君の話なんかまるで聴く気なかったから。そもそもこの五円玉は何なのかしら?」
 私がついさっき回収してきた五円硬貨の一枚を摘み上げると、先輩はつまらなそうに眺めた。
「現場にいつも残されるものです。店の向かい側にある自動販売機で、ある男子高校生が煙草を買った後には必ず三枚残されています」
 あの男子のことが気になり、アルバイトの帰りに自動販売機の前を通った時、気付いたのだ。釣銭が残っていることに。
「高校生って、ウチの生徒かしら? 今時期は教師連中も過敏になっているのに何だってそんな真似するのかしらね」
「そうですよね。こんな時くらい禁煙でもすれば良いでしょうに……」
 深く頷いて同意を示す私。だがしかし篁先輩はやれやれとばかりに盛大なため息をついた。
「清水君って、本当に推理小説とか読むの? 研究部の頃から思っていたけど」
「いやまぁ……ぼちぼちですよ」
 本当は大した興味もなかったので入部してから義務的に何冊かページを捲っただけですとは答えられない。
「とにかく、その男子は煙草なんて買ってないわね」
「え」
「え、じゃないわよ。どうして煙草を買っているのに、五円玉三枚なんて半端なお釣が出てくる訳?」
「そりゃまぁ、五円は後から入れているってことくらい、俺だって察しは付いていましたよ」
煙草を買ってもお釣で五円硬貨が返って来ることはない。それくらいは知っている。
「でも、だからといって買っていないと断言出来る理由にはならないでしょう?」
「じゃあ買っているっていう確固たる証拠にでもなるのかしら? この五円玉」
 ……いや、ならない。本当にこの五円硬貨に関して言えば、その意味が分からないのだ。だからこそ、こうして篁先輩に話しかけるきっかけに使える踏んだ訳だが。
「でも、あの高校生はちゃんと商品の取り出し口に手を突っ込んでましたし……」
「突っ込むだけなら誰だって出来るわよ」
「あ、そう言えばお金をちゃんと入れてましたよ。やっぱり煙草を買っていたとしか……」
「……だから十五円なんじゃないかしら? 清水君。その高校生が返却口にお金入れるとこなんて見てないでしょう?」
「いや、そんな動作はしてなかったです……けど?」
 一瞬、意味が分からなかった。だが、もうこれ以上失望させてくれるなよと無言のプレッシャーを放ち続ける篁先輩の双眸に追い立てられて、私の頭もようやくその意味へと辿り着いた。
「あぁ、そういうことですか。つまりあの高校生が投入していた金額は最初っから十五円だったと」
「……鈍い。こんなのが唯一の新入部員だったんだもの、どの道ウチの研究部も先は無かったってことね」
「うっ……」
 篁先輩の投げやりな言葉が胸に突き刺さる。
 だが確かに考えてみれば、それは実に簡単なことであった。あの高校生は最初から煙草を買う気などないのだ。つまり、彼が自動販売機に投入していたお金は五円硬貨が三枚。そんなリーズナブルな煙草はまず存在しないだろう。そもそも、自動販売機は五円硬貨と一円硬貨は認識されない。
「まぁ三百十五円入れれば、煙草を買って返却口に十五円残すことも出来るだろうけれど……それだと十五円の意味がないものね」
 五円硬貨三枚の意味。それはつまり、
「煙草を買う演技……ってことですか?」
「ご名答。よく出来ましたー」
 テーブルに肘を突いたまま、篁先輩からやる気のない拍手が送られる。しかし我ながら、先輩の下に思考が追いつくのに随分と時間が掛かったものだ。さっきまで例の男子を覗いていた窓の外も夕闇が迫りつつあった。季節はまだ秋ながら、釣瓶落としとはよく言ったもので、放課後にこうして先輩と無駄話を交わせる時間も短くなってきた。
「もうこんな時間ね……」
 私につられて窓の外を眺めた篁先輩は、カップに残っていた珈琲を一気に飲み干すと伝票を掴んだ。
「清水君。お会計して頂戴」
「もうお帰りですか? まだ話が終わってないじゃないですか」
「私だって、帰らなくて良いならあんな実家には帰りたくないわよ」
 篁先輩が眉間に皺を寄せて、あんな実家と酷評するご実家は商店街の一角にある電気店だ。聞くところによると親子二代に渡ってのれんを守り続けてきた店だそうで、先輩の名前は電気店の三代目に由来しているそうだが、先輩にご実家の家業を継ぐ意思は全くないそうだ。先輩がご実家と相まって、名前で呼ばれることを極端に嫌う理由はここにあるらしい。
「清水君もそろそろ仕事に戻った方が良いわ……小暮店長、そろそろ財布も空になる頃でしょうしね」
「ですけど、先輩は気にならないんですか? あの男子が煙草を買う演技をしている理由」
「まぁ暇つぶしにしては面白いほうだったわ。それじゃあ今度は本を持たずに手ぶらで来ようかしら」
 それはありがたい話である。読書モードにスイッチの入った先輩は私がどんなに話しかけても生返事ばかりで、押しの弱い私としては話しかける度に心が折れかけているのだ。
「でも続きを考えるには少し、情報が足りないわね……」
 財布から千円札を取り出した先輩が小首を傾げる。お札を受け取り、お釣を手渡しながら私は尋ねる。
「情報ですか? 例えば、どんな?」
「そうね……例えば」
 受け取ったお釣を眺めていた先輩は五円硬貨を取り出して見せた。
「その男子は、五円玉にどんな縁を期待して投入しているのかしらね……」
「ご縁ですか?」
「そう。この時期に制服を着たまま煙草を買う演技を見せてまで会いたい相手が、どこかにいるはずよ」
 意味もなく煙草を自動販売機で購入する演技はしないだろうとは思っていたが、確かにそういう考え方もある。だとすれば、それは一体どんな相手だと言うのだろうか。
だが先輩は、続きを急ぐ私をからかうように唇の端だけで微笑むと、
「それを考えるのが今度の楽しみなんじゃないかしら。それじゃあ、御馳走様」
 そう言って、艶やかに流れる黒髪を揺らしながら帰っていった。
それにしても、あの先輩があそこまで雄弁になったのも随分と久しい。前に、私が町内で起こったささやかな事件の犯人当てを提案して以来ではないだろうか。やはり、篁先輩と話をしたいならミステリが必要不可欠のようだ。
しかし、いつかはそんなものがなくてもと一人虚しくため息をつきながらシンクに残った洗い物に手を伸ばす私は、今更の告白ではあるが……篁先輩に惚れている。
 そもそも私がこうして「空の雫」でアルバイトしているのもそのためだ。学年が一つ上の篁先輩と唯一の接点であった部活動は私が入って一年間であえなく廃部してしまい、私にはもう先輩が足繁く通うこの店で働く他、道は残されていなかったのだ。
 だがチャンスはもうほとんどない。現在三年生の篁先輩は他県の大学を目指して受験勉強中であり、さすがの私も先輩を追いかけて飛び級で大学に入るほどのアグレッシブさも学力もない。この点に関しては主に学力の方が問題なのだが。
どうか篁先輩との距離が縮まるような展開になってくれ。不謹慎にも三枚の五円玉に、先輩とのご縁を願掛けなどしていたこの時の私は、男子高校生の不可解な行動に隠された真意など知る由もなかった。

           4

「おはようございます、先輩」
「……ん」
 翌日の朝もまた篁先輩は、文庫本を片手に駅のホームに並ぶ。
「篁先輩、昨日の話なんですけどね」
「んー……」
 この「んー……」は言わば黄色信号と同じである。これ以上、無闇に会話を続けようと頑張ったところで、途中で赤信号に変わってしまうのがオチである。だったらここは大人しく、先輩が青信号になるまで待つだけだ。ちなみに私が赤信号に例えた時の先輩は……とても恐い。この一言に尽きる。
 とは言え、私がどれほど従順に篁先輩の読書が終了するのを待っていたとしても、先輩が文庫本を閉じて鞄にしまうのは、降りた駅の改札に定期券を通す時まではまずない。だが、この日ばかりは例外が起こった。
ゴトン、と何か重いものが床を叩く鈍い音が微かに聞こえた。何の音だろうかと思いはしたが、大して気にもせず未だ頭に残る睡魔との格闘を続けていた私に、篁先輩が呟いた。
「……今日もね」
「え?」
「今日もあの男、ゴミ箱に缶を捨てたわ」
 見ると、あの篁先輩がまだ地下鉄も来ていないのに文庫本を閉じているではないか。そのことばかりに気を取られている私に、先輩はそっと目配せをする。
「清水君。見て」
「あ、はい。見ています。先輩って泣きボクロがあるんですね」
「ばか。私じゃないわよ……後ろ。ゴミ箱のとこ」
 言われて振り返る。後ろに並んでいた中年のサラリーマンが露骨に嫌な顔をしたが、用があるのは貴方ではない。見ると、ホームの柱の下に置かれているゴミ箱から離れていく若い男の後姿があった。
「ゴミを捨てたんですね」
「あの音、聞かなかったの?」
「音? あぁ、さっきのゴトンって音ですか。随分重いものを捨てたんですね、きっと」
 最近では公共の場やコンビニエンスストアに備え付けられたゴミ箱に、家庭ゴミを捨てていく不届き者が多いと聞く。どうせその類だろうと私は思ったが、篁先輩は即座に否定する。
「家庭ゴミってそんなに重たいものかしら? しかもここのところ毎日よ」
「毎日って……先輩、そんなにゴミ箱を観察してるんですか?」
「そんな訳ないでしょう。ただ、ゴミを捨てたにしては音が大きいから気に留めていただけ」
 篁先輩は否定しているが、世間一般的には大差ない。例えゴミを捨てる音が多少大きかったとして、それをわざわざ気に留める人などそういないだろう。
「ちょうど一週間くらい……昨日の男子と同じね」
「まぁそうですね」
 正確に言えば、私があの男子に気付いたのが一週間ほど前であっただけで、本当はもっと前から演技に精を出していたかもしれない。
「一週間も続けば、さすがにおかしいわね……ちょっと調べていこうかしら」
 そう言うと先輩はあっさりと地下鉄を待つ列から抜けてしまった。朝の通勤時ということもあって、先輩のいた場所はあっという間に詰められてしまう。
「先輩、もうすぐに地下鉄が来ますよ!」
 私は慌てて呼び止める。しかし篁先輩はすでに推理モードにスイッチが入ってしまっており、振り向きもせずにゴミ箱へと向かっていってしまった。はっきり言って、次の地下鉄をのんびりと待っているほど時間的に余裕はなかったのだが、ここで先輩を見捨てるようなら喫茶店でアルバイトなどしていない。私も列から離脱する。
「やばいですよ、先輩。次の地下鉄乗っても学校まではダッシュ確定ですって」
 どこの駅にでもありそうなゴミ箱をしげしげと観察している篁先輩にやんわりと忠告をしてみる。しかし先輩は、私には目もくれずにあっさりと言ってのけた。
「じゃあ今日は学校休むわ」
「え」
「そんなことより清水君。これを見て」
 スイッチが入ってしまった篁先輩にしてみれば、高校の出席単位などはゴミ箱以下ということか。こうなってはどう反論したところで先輩の意思が変わることはない。ここは素直に諦めて、ゴミ箱を観察するほかないだろう。
「……普通のゴミ箱にしか見えませんけど」
 これと言って何の変哲もないゴミ箱だ。強いて言うなら空き缶専用で透明なプラスティックタイプのものだといったところか。柱の裏側にはジュースの自動販売機がある。朝食で食後の珈琲を楽しめなかったサラリーマンも少なくはないのか、早くもゴミ箱の中には空き缶がいくつか捨てられている。
「きっとさっきの男が捨てたのはこれね」
 そう言って、篁先輩はゴミ箱に捨てられたコーヒーの空き缶の一つを指差す。一瞬で缶コーヒーの銘柄まで見抜いていたのかと驚いたが、先輩は「違うわよ」と呆れ気味に髪をかき上げると、
「ゴトンって音がしたでしょう? 空き缶じゃなかったのよ」
 言われてよく見てみる。すると、確かに空き缶の中に混じって一缶だけ、プルタブの開いていない缶があった。
「飲まずに捨てているんですかね」
「どうして?」
「そうですね……お金持ちなんじゃないですか?」
 思わず適当に答えてしまったが、篁先輩は当然ながら全然納得していない。それではと頭を捻りなおしてみるが、さっきまで寝ていた脳はまだ本調子ではないようで何も思い浮かばない。仕方ないので「間違って欲しくない商品を買ってしまったので怒って捨てた説」を提言しそうになったが、止めておいた。一度だけならそんな気の短い人間がいても不思議ではないが、先輩の記憶が確かならその男が未開封の缶コーヒーをゴミ箱に捨てるというブルジョワな行為を始めてもう一週間は経つのだ。
「じゃああれじゃないですか。清掃しているおばちゃんに差し入れとか」
「随分と高圧的な差し入れね。直接手渡せば良いじゃない」
「照れ屋なのかもしれません」
「高圧的な照れ屋さん? ……却下。他には何かないかしら?」
「何かって言われても……」
 言われてもう一度ゴミ箱を観察するが、これといって不審な点はない。よくよく見れば少し底の方にヒビが入っているし、いかがわしいコメントと並んで電話番号が落書きされていたり、ジュースの汁がこびり付いていたり、あくまでも普通の汚いゴミ箱である。
どちらかと言えば、朝の通勤時間帯に地下鉄には目もくれずゴミ箱を囲んでいる高校生二人の方が不審ではある。さっきまでは周囲の視線も多少なりとも痛かったが、すでに何本か地下鉄が駅を発車しているので、ホームは空き始めていた。
それでもまだ視線を感じるなと思っていたら、ホームの売店にいるお姉さんが物凄い形相でこちらを見ていた。頼むから気にせず仕事をしていて下さい。考えすぎかもしれないが、通報でもしかねない顔だ。先手を打つ意味でも、早く学校に連絡しなきゃ不味いよなと思っていると、
「電話……してみようかしら」
 篁先輩が思い立ったように立ち上がった。今更ですか、先輩……
「してみようかしらって、そんな悠長な。しなきゃダメですよ」
「あら。清水君も電話に頭が回っていたなんて意外ね」
「そうですか? これでも結構真面目な学生ですよ、俺は」
「え」
 いつもとは立場が逆転である。篁先輩が首を傾げる。
 普段と立場が逆になったのは何となく嬉しいことだが、自分が真面目であることをそんなに不思議がられたのは少しショックである。どうやって自分がいかに真面目な学生であるかを伝えようかと悩んでいると、先輩は何かに気付いたのか「あー……」と唸る。いつもの通りの篁先輩に戻ってしまった。
「もしかして清水君。学校に電話しようと思っていたの?」
「いや、もしかしてって……他に電話するところありますか?」
「あるでしょうが……ここよ、ここ」
 半ば呆れ顔で先輩が指で示した先には、例のゴミ箱に書かれた落書きがある。油性マジックの丸っこい文字で、『誰とでも寝る女』という一文と共に電話番号が記されていた。主に公衆便所の壁などに見受けられるありきたりな落書きであるが……
「篁先輩、こんなの真に受けちゃダメですよ」
 やんわりと諭してみた。篁先輩がこんな落書きを真に受けるとは思っていなかったが、本人が電話すると言い出した以上は、制止するより他ない。ところが、
「……何で私がこんな落書きを真に受けなきゃいけないのよ? 電話するって言ってるだけでしょ」
 私の制止を振り切ると、すぐさま自分の携帯でダイヤルをし出した。
「ちょ、先輩! 本気ですか?」
「……しっ」
 携帯を耳にあてたまま、先輩が人差し指を立てる。その眼差しは真剣そのもので、私にはもう止める手立ては残っていない。黙って見守ることにした。先輩は口を開かずにただずっと携帯に耳をそばだてていたが、やがて少しだけ笑みを浮かべると電話を切った。
「どうしたんですか? 誰か出たんですか?」
「まぁね。気になるの、清水君? 誰とでも寝る女が」
「そ、そんな訳ないじゃないですか!」
「どうだか……若いもんねぇ」
 そういってほくそ笑む篁先輩はどこか愉しげである。私が単純にいじりがいのある後輩であるという気がしなくもないが、きっと電話で何かしらのヒントを得たのであろう。
「先輩、ゴミ箱に未開封の缶コーヒーを捨てる意味、分かったんですか?」
「そうね。まぁ、大体の見当は付いたってところかしら」
「どんな意味があるんです? 教えてくださいよ」
「そうね……」
 どこから話し始めようかしらと腕組みする篁先輩の頭上で、電光掲示板から間もなく地下鉄が到着することを告げるアナウンスが流れた。
「ここでいつまでも立ち話も何だし、少しお茶でもしようかしら。良い、清水君?」
 是が非もない。篁先輩と曲がりなりにもデートが出来ると考えれば、出席単位の一つや二つは気前良く忘れられるというものだ。

「そう言えば、今朝の出来事とあの男子の演技には共通点があるわね」
 注文していたマンデリンを一口啜ると、篁先輩はそう切り出した。
 篁先輩の共通点という言葉は確かに気になったものの、私は最初に訊いておきたいことがあった。それは、
「……あの、先輩。それよりどうしてここなんですか?」
 篁先輩が「良いお店を知っているの」と言うのですっかり期待してしまっていたが、辿り着いた先は「空の雫」であった。日中であれば当然ながら小暮店長がカウンターにいる。学校をサボった時には特に会いたくはない。
「そんなの、君が学校をズル休みしたって店長に教えるためよ?」
「先輩!」
 思わず泣きそうな顔をした私の前に、小暮店長が注文していたブレンドとエッグトーストを並べた。その顔は満面の笑みである。実に良い性格をしている方だ。
「清水。お前、学校サボってミヨちゃんとデートかい?」
「いや、違いま……せんけど」
 デートであることは否定したくない。だが向かいの席で篁先輩は、きっぱりと言い切る。
「ただのサボりです」
「先輩!」
 今度は本当に涙がこぼれるかと思った。せめて小暮店長の前でくらい良い格好をさせて欲しい。だが店長は「年上の女には気をつけるんだぞ」と、謎のアドバイスだけ言い残してカウンターへと戻っていった。
「まぁ、冗談はさておいて……ここを選んだ理由は簡単よ。もしかしたら、あの男子がまた見られるかもしれないじゃない?」
「今は授業中ですよ」
「それは私たちだって同じじゃない?」
 言われてみれば、確かにそうだ。あの男子だって学校をサボれば演技は出来る。しかし、
「そう都合よく俺らがいる時に来ますかね……」
「そんなの分からないわ。だから大して期待はしてないの。本題があるんだし、おまけみたいなものよ」
 そうだった。今はホームのゴミ箱が本題であった。
「そう言えば、先輩はさっき共通点って言ってましたけど……」
「そうよ。あの男子にしても、今朝ホームで缶コーヒーを捨てた男にしても、どちらも演技を続けているわ」
「まぁ、そうですね」
 だからこそ、二人とも私たちの目に止まった訳である。
「継続は力なり……とはよく言うけれど、彼らだって何かのために演技し続けているのかしら?」
「あの男子は誰かに演技を見せるため……でしたね」
 そこから先はまだ不明であるが、昨日の段階であの男子は誰かに自分が煙草を買っていると思わせるために演技しているということは先輩の推理で分かっている。
「じゃあ、今朝の男もそのための演技ですか?」
「違うわ。あの男の演技は他人に気付かれるためには目を引く要素がないもの」
 確かに言われてみればそうだ。どうも頭に栄養が足りていないのかもしれない。私はとりあえず話の進行を篁先輩に任せて、エッグトーストに噛り付いた。脳に栄養を送り込み、起死回生を狙う。
「あの男子は煙草を買う演技を続けることで誰かの目に付こうしていた。言うなれば確率を高めていたのよね。でも今朝の男は、空き缶を捨てる演技をしながら蓄積させていたのよ」
「何をですか?」
 まだ頭に栄養が足りないようだ。私は残りのエッグトーストをコーヒーで流し込んだ。
「ダメージよ。あのゴミ箱ってプラスティックで出来ているタイプだったでしょ?」
「そうですね。少しヒビ入っていて……」
 そこまで言ってようやく篁先輩の言わんとしていることが分かった。
「あの男はゴミ箱を壊したかったんですか?」
「多分ね……正確には、底がもう少し割れて新しいものと交換して欲しかったんじゃないかしら」
 しかしそれにしても、ゴミ箱を壊すためだけに缶コーヒーを投げ込み続けるとは随分と遠まわしなダメージではないか。
「もし自分だったら、覚悟を決めて一発蹴りでも入れますよ」
「そうね。私なら床へ叩きつけるわね」
 ……それはやり過ぎな気もする。まぁ、どちらにせよ缶コーヒー爆撃を繰り返すよりははるかに効率的である。しかしあの男はあえてその効率の悪い方法を選んでいる。それはつまり、
「あの男にはそれが出来ない理由があった……ということですか? ていうか、何で駅のゴミ箱を壊す必要があるんでしょうかね」
「良いわね。今日はなかなか冴えているじゃないの、清水君」
 篁先輩は上機嫌でカップを空にすると、店長に二杯目を頼む。
「そうね。駅のホームにあるゴミ箱が壊れたって、誰か得する訳でもないわ。でもあの男は壊したがっている。つまりはそういうことよ」
「うーん……もしかして、あの落書きが邪魔なんですか?」
「やるわね、清水君。見直したわ」
 店長の運んできた二杯目のコーヒーを受け取ると、篁先輩は「乾杯」とカップを合わせてきた。うーむ、まさかここまでの賞賛を受けられるとは思ってもみなかった。
「誰とでも寝る女と書かれたあの電話番号。当然だけど女性なんかには掛からなかったわ。出たのは男」
「でしょうね」
 自分でしたことはないのではっきりとは言えないが、あんな落書きは十中八九が電話番号の相手に対する嫌がらせに決まっている。
「こっちから話してやるのも癪だから黙っていたら、向こうから色々と喋ってくれたわよ。『あんなの信じて電話してきて馬鹿じゃねーの』とか『お前もあの女も許さない。みんな死ね』とか」
 聞いているだけでも腹立たしく思えてくる。だが篁先輩はあの時、
「それ聞いて笑ってました……よね?」
「だって面白いじゃない。黙っているだけで勝手に喋りだしたと思ったら一方的に怒っちゃって……他愛無いわ」
 篁先輩はあの時と同じ笑みを口元に浮かべる。思い出し笑いというやつだろうか。事情を知らずにこの笑みを向けられれば、私でなくとも心ときめくものがあるだろうが、ネタを明かされている私は少しばかり背筋が寒くなった。また一つ、スイッチの入った先輩の恐ろしい一面を垣間見てしまった気がする。
「まぁ、ボキャブラリーが少ない男みたいでその後も馬鹿と死ねしか言わなくなったから飽きちゃって切ったんだけど、少なくとも落書きに電話番号を書かれた男が迷惑を被っていることだけはよく分かったわね」
 確かに。相手が誰かも分からない電話に出て、いきなり『あんなの信じて』と断定してくる辺り、篁先輩の前にも何人か電話をして来ていることは間違いなさそうだ。
「でも、そんなに迷惑しているなら落書きを消せば済みませんか?」
「だからしているじゃない。空き缶捨てるふりをして缶コーヒーを捨てて、地道にコッソリばれないように」
「ばれないように……って、誰にですか?」
「たぶんだけど……売店のお姉さんじゃないかしら」
「売店のお姉さん?」
 言われて、朝っぱらからホームに設置されているゴミ箱を観察するという不審な行動を取っていた私たちに奇異な目を向けていた売店のお姉さんの眼光が脳裏に蘇える。それにしても、あれは奇異の目というより睨み付けるといった方が正確かもしれない。まるで私たちが親の敵かテロリストであるかのような目付きであった。
「確かに、売店のお姉さんから見れば空き缶を捨てているように見えるでしょうけど、何でまたそんな面倒なことを」
「そもそも、私が売店のお姉さんを挙げたのには理由があるわ。一つ目は、お姉さんだったから」
「はぁ」
「そして二つ目に、あの落書きされたゴミ箱がよく見える位置にずっといるから」
「なるほど」
 などと、口では言ってみたものの、全く納得はしていなかった。第一、お姉さんであることがそんなに重要なのだろうか。別に売店で働いているのはオバサンでも良いんじゃないだろうか。だが、篁先輩は力いっぱい否定する。
「駄目に決まっているじゃない。だって清水君? 君は若い女の尻を追っかけるのとオバサンのケツ追っかけるの、どっちが愉しいかしら?」
 それは勿論、若い女性の……と危うく答えそうになった口を慌てて閉じた。それを見て篁先輩はいかにも残念そうに「ちぇ」と舌打ちしてきた……危ない。
「とりあえず、清水君が若い女の尻を追いかける趣味があることは置いておいて……」
「いや、放置しないで下さい! 認めてはいないですから!」
 なぜか断定されていた。だが、篁先輩は私の申し出はあっさり無視して話を進める。
「世の中広いから色んな趣味の人がいるけれど、一般的に世の男性は若い女性が好きよ……清水君みたいに」
「まぁ、そうかもしれませんね……た、篁先輩も若いですし」
 何とまぁ、自分でも情けないくらいに遠まわしなアピール。案の定、篁先輩にはその想いが届く訳もなく、話は続く。
「とにかく。あの男は売店のお姉さんに、ゴミ箱の落書きと一緒に書いてある電話番号の主が自分だとばれたら困るのよ」
「お姉さん限定ですか?」
「もしかしたら、売店で働いている人なら誰でも困るかもしれないけど、あの形相から判断するに一番困るのは、今日のお姉さんよ」
「睨まれるからですか?」
「まぁ、そうとも言えるわね。正確に言えば警察に睨まれるからじゃない?」
「警察? どうしていきなり警察が絡んでくるんですか?」
「簡単なことよ。それは今朝の男がストーカーだからよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 私は思わず、淡々と話す篁先輩に待ったをかけた。
突如として急展開を見せてきた先輩の推理に、私の頭が全く追いついていないのだ。どこをどう考えれば、毎朝缶コーヒーを捨てているだけの男がストーカーという犯罪者に変貌するのか……頭を抱えてみたものの全然理解できない。
「えーと……今朝の男、ストーカーっぽかったでしたっけ?」
「そんなの見た目で分かれば警察だって苦労しないわよ」
 仰るとおりである。ではどうして篁先輩はあの男をストーカーだと言い切ったのか。二杯目の珈琲も飲み干し手持ち無沙汰なのか、先輩は髪の毛先を指で弄びながら続けた。
「状況証拠のみで考えればそうなるのが自然よ。あの男はゴミ箱の落書きのせいで、非常に迷惑を被っているわ。誰かも分からない相手にいきなり怒鳴りつけるくらいに。でも、そんな男が落書きをいかにして消そうとしているかと言えば、毎朝缶コーヒーをゴミ箱に投下して壊そうという、とんでもなく地道で効果的でない手段だったわ」
「そうですね。別に壊さなくても、駅務室とかでお願いすれば対処してくれそうなものですよね」
「そう。じゃあ缶コーヒー投下による破壊工作における唯一のメリットとは何か? 清水君」
 いきなり御指名を受けたので、驚いて背筋が伸びきってしまった。苦手な科目の授業で必死に教師から目を逸らしている時の気分だ。私は主に英語の授業でこんな気分になる訳だが、相手は一度も海外渡航したことのなさそうな冴えない中年教師ではなく、篁先輩である。しらばっくれて「分かりません」では済まされない。
「そうですね……周りからは空き缶を捨てているように見える、ですか?」
「惜しい、三角ね。二重丸を貰うんだったら『売店のお姉さんに』を付け足さなきゃいけないわ。だってそうでしょ? 毎朝大勢の乗客が行き交う駅のホームで、不特定多数の人間の目まで欺く必要はないんだし」
 確かにそれは言えている。私だって毎日あのホームで地下鉄を待っているが、篁先輩に言われるまで、密かにゴミ箱の破壊工作が遂行されているとは知らずに過ごして来た。
「それに、ホームでずっとゴミ箱を監視し続けられる人なんて、あの売店で働いているお姉さんくらいしかいないわ。だからあの男は、売店のお姉さんに自分の正体がばれたくないということになる。あの男は電話で『あの女も』と口走っていたし、自分の電話番号をゴミ箱に書いた人間に心当たりがあるんだわ。そしてそれが売店のお姉さんであることも知っている。だけど逆にお姉さんは、男の電話番号は知っているけれど、それが誰かは知らない。そういった特殊な状況から導き出される二人の関係はストーカーとその被害者となる訳ね」
「うーん。そう、ですね……」
 やや力技に感じる部分はないこともないが、かと言って私には篁先輩の推理以外で今朝拾い集めたパズルのピースを復元する方法は思いつかない。ということは、これが真実ということなんだろう。しかし、一つだけ腑に落ちない点はある。
「先輩。だとすれば、どうして売店のお姉さんは警察にすぐ助けを求めないんですか?」
「もう求めたけど、実被害が少なくて動いてくれなかったのか……もしくは、最初から警察に頼るつもりはないのかもしれないわね」
「頼るつもりはないってことは、まさか先輩はあのお姉さんが自分の手で捕まえると思ってると?」
「だって、自分の目が届く場所にああやって晒している訳でしょ。捕り物を演じるつもりはなくても、個人的な復讐をしていることにはなるわ」
 男からの通話が、果たして無言電話であったのか、それとも卑猥な言葉をひたすら投げかける類のものであったのかは定かではないが、あの男が先輩に電話口で怒鳴りつけてきたという事実があるのだ。お姉さんの復讐は一定の成功を収めたと言える。
「まぁ、復讐のやり方としては面白いかもしれないけれど、個人的にはあまりお勧めしないわね」
 面白いかどうかは分からないが、最後の意見には私も篁先輩に同意する。近年ではストーカーから殺人事件に発展してしまうケースも少なくない。復讐してやりたいという気持ちも分からなくはないが、売店のお姉さんは自宅の住所や出勤ルートなんかも調べられている可能性だってあるだろう。これは結構、ヤバいんじゃないだろうか。
「先輩、あのお姉さん止めたほうが……って、先輩?」
「……ん」
 どうやら自分の推理を一通り喋り終えて満足したらしい。気付いたら篁先輩のスイッチが切れていた……もとい、鞄から文庫本を取り出し今朝の続きを紐解いていた。時すでに遅しという感はあるが、それでも一応は提案してみる。
「先輩もあんな復讐は危ないって気付いているんですよね? だったら、止めさせた方が良くないですか?」
「……何で?」
 さっきまで饒舌に話していたのが嘘のようなレスポンスの遅さだ。ただ単純に、今の篁先輩が目の前にいる人間との会話よりも読書を優先しているせいなのだが、先輩は二重人格ではないかと疑いたくなるほどの落差がある。
「いや、何でって心配じゃないですか。殺される危険性があるのに放っておくなんて」
「……清水君……どうやって、止めるつもり?」
「それは……」
 それは……その続きが、まるで出てこなかった。さっきまで膨らみ続けていた危機感も一気に萎んでいくのを感じていた。確かに私は、篁先輩の推理で売店のお姉さんがストーカーの被害に遭っていることを知り得た。そして、ゴミ箱に缶コーヒーを捨てている男がそのストーカーであるということも分かった。だが、それだけだ。お姉さんはストーカーの番号を晒してまでその正体を暴こうとしている好戦的な人だ。そんな人にストーカーの正体を伝えたところで、火に油を注ぐようなものではないか。
「……結局ね」
 篁先輩の細い指先が文庫本のページを弾いた。乾いた紙の音が響く。
「……推理なんて、何の意味もないのよ」
 私はもう何も、言い返すことが出来なかった。
推理なんて何の意味もない。だから篁先輩は本を読むのだろうか。せめて推理が意味を持つことの出来る世界に埋没しようとしているのだろうか。
 向かいに座る篁先輩はまたいつもと変わらず活字を黙々と追い続けている。私はと言えば、ただ椅子に座って話を聞いていただけなのにどうしようもなく疲れきっていた。気付けばもう昼である。これからどうしたものか。何も思い浮かばず、ただ呆然と窓の外を眺めていると……
「先輩」
「……先に帰って良いわよ」
「いや、先輩」
「……ご馳走するわ。無駄なことに付き合わせたお礼」
「違いますって! 外を見てください」
「……ん」
 物憂げに振り向いた篁先輩の視線が、ある一つのものを捉えた。
道路を挟んだ店の向かい。煙草の自動販売機の前で、あの男子が煙草を買おうとしていたのだ。この時間でもやはりちゃんと制服は着ている。硬貨を三枚投入し、煙草の銘柄を選ぶ。そして、しゃがんで商品取り出し口に片手を突っ込むと、立ち上がって帰っていく……まさにその瞬間。
「あ……」
 男子が一瞬、こちらを振り向いたのだ。私と篁先輩は彼の演技に釘付けであった訳だが、果たして人の視線というものは、道路と窓ガラス一枚通してでも伝わるものなのか。私がふと、そんなことを考えていると、
「清水君。高校に行くわよ」
「え、何でまた……」
「確かめたいことがあるの」
 言うや、篁先輩は椅子を蹴り飛ばさん勢いで店を出て行ってしまった。こうなればもう後を追いかけるしかない。私は伝票片手にカウンターと向かう。しかし煙草をふかしていた小暮店長は私の差し出した伝票には手を伸ばそうとせず、
「会計はしなくて良いぞ。さっさとミヨちゃん追いかけろ」
私は小暮店長に頭を下げると、急いで店の外へと飛び出した。閉まりかけの扉の向こうから店長の声がする。
「後で給料から引いておくから大丈夫だ」
 ……どうせそんなことだろうと思っていた。

          5

「やったじゃねーか、清水」
「別に何もしてないっての」
 ちょうど高校は昼休みだった。その方がこちらとしては校舎への侵入が容易で助かったのだが、ギャラリーの目が多いことは予想外であった。教室に入るなり、友人の大橋がバシバシと肩を叩いてきた。
「とうとうあの篁先輩と同伴通学とはよ。しかも余裕シャクシャクで遅刻と来たもんだ」
 その篁先輩はと言えば、高校に着くなりどこかへ行ってしまった。確かめたいことがあるとは行っていたが、まさか置いて行かれるとは思わなかった。
「あれ? でもお前、確か風邪ひいて休みじゃなかったっけ?」
「え? あぁ、治ったんだ。急に」
「……素直に仮病だって言えよ」
 そう言えば、地下鉄の駅から「空の雫」に向かう道中で高校に電話を入れていたのを忘れていた。
「まぁそれでも、一日くらいなら大目に見てもらえるんじゃないか? 隣のクラスじゃ最近、不登校児がいるらしいからな」
「ほう。そんな問題児がいたっけ? 隣のクラス」
 私は決してクラスを跨いでまで交友関係を広げられるほど社交的ではないので、隣のクラスにどういった生徒がいるのかまるで分からない。
「ええとな……」
 大橋は机の中をガサゴソと漁り始めると、一枚のプリントを取り出した。
「これ。この前、野球部の石川部長が喫煙騒動で停学処分食らったろ?」
 プリントは学校新聞だった。新聞部の一週間に一回と言うハイペースで刷り上げるその努力は賞賛に値するが、申し訳ないことにちゃんと読んだことは一度もなかった。だが、大橋が指差す記事の内容だけは私も知っている。学校でそれなりに噂が飛び交ったからだ。
新聞には白黒ではあるが、その石川部長の顔写真も掲載されていた。坊主に刈った頭に無骨なイメージの顔立ち。面識はないのでこの写真のイメージだけだが、とても喫煙騒動を起こしそうな印象は受けないが、人は見た目に寄らないということか。しかしこの顔はどこかで見たことがあるような……
「そんなこともあったな。確か、三年の先輩だろう?」
「そうそう。何か大学の推薦取り消されたりして大変だったみたいだぜ」
「詳しいな、大橋」
「一応読んでいるからな。新聞部に可愛い子、いるんだよ」
 悪びれずにそう言ってのける大橋は誰もがご推察の通り、女好きである。ルックスも私と違って悪くないし、動機が不純であれ何事にも積極的に取り組む彼の姿勢は、見ていて嫌な感じがしない。その上、ノリが良いので男友達も多い。要するに、クラスに一人はいるモテるタイプというやつだ。
「だけど、部が刷っている新聞にそんなことまで書いているのか……」
「それだけじゃないぜ。新聞部の涼子ちゃん……あ、丸山涼子って言うんだけど、彼女は喫煙騒動に疑問を感じているらしい」
 大橋はニヤリとほくそ笑むと、その記事が載っている部分を指でなぞった。私もその後を目で追ってみる。
『……なお、当事者である石川部長は喫煙の疑いを否認。親戚に頼まれて購入したのだと弁解していた。我が部の取材に対して生活指導部の教員は「近隣住民の目撃証言もある」とのコメントを寄せたが、その通報者に関しては黙秘としているために、その信憑性は完全とは言い難い面もある。(文・丸山涼子)』
なるほど。確かにこの丸山さんはあまり学校側を信用していないようだ。
「ところで、隣のクラスにいる不登校児の話はどこに言ったんだよ」
「どこにも言ってねえよ。この停学処分を食らった部長の弟がその不登校児なんだよ」
「ふうん。まぁ、通いにくく思う気持ちは分からないでもないけど……」
「だけどよ、清水。不登校はやり過ぎだろ。学園祭のステージ発表でフラれた後の俺の方がよっぽど学校に来るのが辛かったぞ」
 そう言えば昔、そんなこともあった。海外なんかの映像で紹介されるサプライズの演出に感化された大橋が、クラスの出し物で演じていた『忠臣蔵』のクライマックスシーン直前に、突然観客席の中にいる女子に告白をしたのだ。結果は言うまでもなく惨敗。おまけにステージ進行に滞りがあったということで、大橋は実行委員からこっぴどく怒られたという。
「あれは大石蔵之介のくせに告白なんかしたお前が悪いだろ……」
「馬鹿言え。大石さんだって告白くらいするだろーが」
「……少なくとも討ち入り前にはしないと思うぞ」
 と、ここで大橋が「悪ぃ」と断って、ポケットから携帯を引っ張り出した。着信の相手を見て大橋は「おっ」と声をあげる。
「噂をすれば何とやらだ……涼子ちゃんからだぜ」
「自慢しなくて良いから、さっさと出てあげろよ」
 私は気を使って席を外してやることにした。大橋は別に誰の前であろうと気にしないタイプであるが、一応は親しき間にもエチケットである。だが、大橋はすぐに私を追いかけて来ると、なぜか携帯を渡して来た。
「お前に電話だぞ」
「何で? 俺、丸山さんと面識ないんだけど」
 状況が飲み込めないまま取りあえず携帯を受け取った私を受話器の向こうから呼ぶ声が……篁先輩だ。
「何か、涼子ちゃんのクラスにいきなり来たらしい。清水ならどうせ俺と一緒にいるだろうから俺に電話かけさせたんだと」
 言われて気付いた。よく考えれば、私はまだ篁先輩の電話番号も知らなかった……大橋もそのことを思ったのだろう。居た堪れないような表情で私を見つめながら肩を叩いてきた。安い同情などして欲しくない。
「……もしもし。清水です」
「清水君? どうしたの、元気ないわね」
「いえ別に。ただ先輩の電話番号も知らないのは不便だなと思いまして」
 本音を言えば、不便というより不憫だった。主に自分が。だが、篁先輩は私のそんな胸の内を知る由もない。
「そんなことより分かったわ」
「いや、そんなことって……何が分かったんですか?」
 気を取り直して尋ねた私に、篁先輩は言った。
「五円玉にあの高校生が託した意味よ」

 結局、午後からの授業も私はサボることになった。あの後、篁先輩にさっさと学校を出るように言われたからだ。昼休みが終われば、教師はまた教室へと戻ってくる。どこへ行くんだと訊いて来た大橋には一応、「やっぱりまた寒気がしてきた」と言い訳をしておいた。
「情報が少なかったせいもあるけれど、私たちは根本的に間違っていたのよ」
「はぁ」
「あの高校生は、同じ高校の生徒が喫煙騒動を起こした時期に、あえてそうした危険を冒してまで制服のまま演技をしていたと私は思い込んでいたけれど、本当はその逆だったのよ」
「それは、あの高校生がこの時期だからこそ、制服を着て演技をしていたってことですか?」
 篁先輩は頷く。私が大橋に学校新聞の記事を見せてもらっていた頃、先輩は記事を書いた仲丸さんに直接、話を聴きに行っていたそうだ。二人は昔からの知り合いらしい。
「私たち、昨日は間抜けにもあの高校生を心配したりしていたわよね。こんな時期に制服まで来て演技していたら、目的を果たす前に通報されちゃうんじゃないかって……でも、それで良かったのよね。あの男子は、通報されたがっていた」
「通報されたがっていたって……そんな」
 それでは演技の意味がない。通報されたいのであれば普通に自動販売機で煙草を購入し続ければそれで済むのだから。いや、むしろ咥え煙草で交番の周りをうろついた方が早い。ではどうして、先輩は煙草を買う演技の目的を通報されるためとしたのか……まるで分からないが、
「もしかして……お金がないんですか?」
 どうにか考えを搾り出した私に、篁先輩はキョトンとした顔をしている。一瞬の間、そして静かに漏れ出す失笑の声。いっそのこと大声で笑われた方がマシである。
「面白いわね、清水君。まぁ確かに、通報されるためだけに浪費するのは手痛い出費かもしれないわ。その点はまるっきり考慮していなかった」
 そこで篁先輩は言葉を切ると、周囲を見回した。どうも現在の所在地を確認しているようであった。気が付くと普段通ることのない住宅街の中を歩いていた。喫茶店に戻るとばかり思っていたが、違うのだろうか。
「先輩、ウチの店はこっちじゃないですよ」
「空の雫」は住宅街と商店街のちょうど中間くらいに位置している。住宅街の中まで来てしまうと行き過ぎである。だが、
「知ってるわよ。そんなこと。あれだけ通い詰めていて迷子になる訳がないでしょ」
と、怒られてしまった。そしてまたまた歩き出す。
「あの、じゃあ先輩。今どこに向かっているんですか?」
「そんなの決まっているじゃない。あの男子の家よ」
 今更何をと、非難めいた視線を向けてくる篁先輩だが、ちょっと待って欲しい。そんなことがいつ決まったのか。少なくとも私は知らない。というか、
「どうして先輩が、あの男子の家を知ってるんですか?」
「どうしてって、仲丸さんに教えてもらったからよ」
「仲丸さんが? もしかして新聞部もあの演技に興味を持っていたんですか?」
「全然。興味どころか、見たこともないはずよ。あの男子とは直接の面識もないみたいだし……」
 篁先輩はあっさりと否定する。ということは、仲丸さんはあの男子も、彼の演技については一切知らないが、彼の住所は知っているということなのか。こうなってくると、分からない事だらけで頭が痛くなってくる。
「何かもう、疲れてきました……」
「困るわ、清水君。君には後で働いてもらうんだから」
 疲れているのは頭の方だが、その話も初耳だ。
「働くって、何をすれば良いんですか? 難しいことは出来ませんよ」
「大丈夫よ。小学生でも出来るもの。いい? 男子の家に着いたらインターホンを鳴らすでしょ?」
「えぇ」
「相手が出たら、走って逃げて」
「分かりました……って、ただの悪戯じゃないですか!」
 小学生でも出来るというか、小学生じゃなければやらないだろう悪戯だ。
「清水君が新興宗教の勧誘員の真似とか出来るんなら、別に走って逃げなくても良いわよ。要は本当にあの男子の家かどうか確認出来れば良いだけだから」
「そんな真似なんてしたことないですよ……それに、それなら別に郵便屋さんとか新聞拡張員でも良いじゃないですか」
「学生服着た郵便局員なんているかしらね? それとも洗剤も持たずに契約取る気?」
「うっ……」
「諦めてピンポンダッシュしなさいよ」
「犯罪行為はしたくありません」
 小市民的発想であるが、例え悪戯の類だとしても、そんなことをした日にはパトカーを見る度に心拍数がおかしくなりそうなのでピンポンダッシュは無理だ。
「ですので……死後の世界について少しばかりお話をして来ます」
「身分を偽るのも犯罪じゃないのかしら?」
「信教の自由です。法には触れてません」
 とは言っても、我が家はクリスマスにはケーキを食べて正月には神社に詣でるごく一般的な無神論者の家庭であるが。
「清水君に詐欺は無理だと思うけどなぁ」
「詐欺じゃありません。三途の川の渡り方をレクチャーするだけです」
「まぁ、三途の川でも針の山の登り方でも何でも良いから頑張ってきて頂戴ね」
 そう言って、篁先輩に背中を押された先には一軒のお宅が軒を構えていた。周辺の一軒家と比べると少しばかりグレードの高そうな門構えである。表札が大理石だし、庭の植え込みも手入れが整っている。
「もしかしてここですか、篁先輩? ……先輩?」
 返事がないので振り返ってみる。少し離れたところの電柱に身を潜めた篁先輩がにこやかに手を振っている。ひどい人だ……意を決して玄関のインターホンに指を伸ばす。ややあって「はい?」という低い声と共にドアが開いた。出てきたのはあの男子ではない。だが、その顔には見覚えがあった。ついさっき白黒ではあるが、見たばかりのその人は石川部長である。しかし、どうして野球部の部長が出てくるのだ? いや、待てよ。そういえば……思わず振り返りたくなったが、そんなことをして篁先輩の存在がばれてしまっては、計画が台無しだ。私は緊張で震えてくる拳を握りなおすと、出来るだけ澄ました表情を作り、言った。
「……貴方は神を信じますか?」
 石川部長は何も答えない。ただゆっくりとドアが閉まっていく。
「ちょ、ちょっと待ってください」
 慌てた私はドアへとしがみ付く。石川部長はさすがに私を挟んだりこそしなかったが、私の指をドアから引き剥がすと、
「……どうせウチの弟のダチだろう? 悪いが、アイツなら留守だよ。昼前に一回帰ってきたんだけど、飯も食わずにまたすぐ出掛けたんだ。人の大切なバットを勝手に持ち出してるんだ。もし会ったらバットだけでも返すように言っておいてくれ」
「あの、だから……」
 弁解の余地もなく、ドアはそこで閉じられてしまった。
 これで目的は果たせた……のだろうか。少なくとも、石川部長に神の存在を信じさせることには失敗した。よく分からないが、振り返ると篁先輩が戻ってくるよう合図を送っているので、素直に退散させてもらうことにした。電柱の影で先輩が私を出迎える。
「ご苦労様。信者は獲得出来たかしら?」
「冗談言ってる場合じゃないですよ、篁先輩」
 一生に一度になるかもしれない私の大芝居にご満悦の様子である篁先輩。そんな先輩に私は抗議する。
「どうして最初に言っておいてくれなかったんですか? 石川部長の弟があの男子だったって」
「あれ、教えてなかったかしら?」
「聞いていませんよ、そんなこと」
「でもよく見れば分かるじゃない。あの二人、兄弟だけあってよく似ていたもの。私だって石川部長とは面識なかったのよ?」
 学校新聞を見ておいて助かった。ドアが開いた瞬間は本気で訪問するお宅を間違えてしまったかと焦ったものだ。しかし篁先輩は、あの時に一瞬だけ見た男子の顔と新聞で見た石川部長の顔を照らし合わせたのか。スイッチの入った先輩は侮りがたい。
「それにしても残念だったわ。謹慎中のお兄さんに気を使って、弟が出てくると踏んでいたんだけど……駄目な弟ね」
「いや、そんな……遊びに行っていたんですよ。一度帰ってきたけれど、また出掛けたって言っていましたし」
「高校サボってどこほっつき歩いているのかしらね、全く」
 篁先輩はあの男子が不在であったことがお気に召さないようだが、朝から喫茶店に行ったり昼休みだけ高校に行ったりまたサボったりしている私たちが言えた義理じゃない。
「野球でもしに行ったんじゃないですか?」
「ちなみに弟は野球部じゃないわよ」
「え、でも何かお兄さんのバット持ち出してどっかに出掛けたみたいですよ」
 てっきり暇潰しにバッティングセンターにでも行ったのかと思っていた。だが、そんなことを悠長に考えている私の横で、篁先輩の表情は急に険しいものへと変わっていた。
「ちょっと待って。今の話、本当?」
「え、えぇ。お兄さんがそう言ってかたら間違いないと思いますけど……?」
「……不味いわ。最悪」
 言うや、篁先輩は踵を返して走り出した。全くの不意打ちに、私は転びそうになりながらもどうにか追い駆ける。一体、先輩はどうしたというのか。運動全般を不得手とする私は息を切らしながらも、どうにか先輩を呼び止める。
「先輩、急にどうしたんですか?」
「今はのんびり説明している場合じゃないわ。あの男子を早く見つけないと……」
不意に、軽やかメロディが流れ出した。先を急ぐ篁先輩を今度は携帯が足止めしたのである。「こんな時に誰よ?」と珍しくいきり立つ先輩は乱暴に電話を取った。
「もしもし? あ、仲丸さん。悪いけれど、今は……え、何?」
 篁先輩は電話に出ているちょうどその時、私は何の気なしに来た道を振り返った。まだここからでも石川部長の玄関先が見える。勢いよく開け放たれるドア。部長だ。もどかしげに鍵を掛けて駆け出していった部長の横顔は、どうしてか先輩と同じく険しいものだった……
「あ、先輩。仲丸さんは何だったんですか?」
 どうやら電話は済んだようだ。しかし篁先輩は携帯を握ったまま、ただぼうっと俯いている。どうしたんだろうか。「先輩?」と、近寄った私の肩を先輩が掴んだ。下を向いたまま肩を掴んで来た先輩の表情は垣間見えない。だが、消え入りそうな声がその表情を思わせた……篁先輩?
「……あの男子が、警察に捕まったわ」

          6

 次の日、篁先輩は高校を休んだ。
 久々に一人でぼんやりと駅のホームに並び、学校まで辿り着くと、そこには多くのマスコミが生徒たちを待ち構えていた。生徒にマイクを向けるリポーターに、それを止める教師。面白半分でインタビューに応じる生徒に、校門を潜ろうとするカメラマン。そしてそれを阻止する教頭……そうした混乱の中をどうにかすり抜けて教室まで辿り着くと、大橋が声を掛けてきた。
「おう、清水。朝からうるせーな」
「あんなに間近でマイクを見たのはカラオケ以外じゃ初めてだったよ」
 私にも何度かコメントを求めるマイクが向けられはしたが、私はそれを押し返してきた。とてもじゃないが、テレビのインタビューに応じるような気持ちにはなれなかった。
「……ところで、仲丸さんは?」
 気になったので訊いてみる。思えば昨日、私と篁先輩に一報を伝えてくれたのは彼女だった。新聞部として、本物のマスコミと競い合って頑張っているのかと思いきや、
「別に。少なくとも外で一緒に取材合戦なんてことはしてないぜ」
「新聞の記事にはしないのか……」
「高校の学校新聞で扱うべきことじゃないってさ。朝、電話してみたらそう言ってた」
 確かにそうかもしれない。昨日はあの後、すぐに篁先輩と別れてしまったので話の詳細はよく分からなかった。先輩のことが心配であったが、伏目がちに「ごめん、先に帰って」と言われてしまい、それ以上は何も聞けずに先輩を見送った。だが、今朝のニュースを見る限りでは、あの男子が持ち出したバットで人を殴ったことだけは分かった。幸いにも、相手の命に別状はない。本当にそれだけが、唯一の幸いであった。
「お前の方こそ、どうなんだよ?」
「どうって、何がだよ?」
「篁先輩に決まってるだろ。俺と言えば涼子ちゃん。お前と言えば篁先輩だ」
 今日初めて、大橋の屈託ない笑顔を見ることが出来た。
「そうだと嬉しいんだけどな……先輩か。結構落ち込んでいたな……今日は高校休むみたいだし」
「じゃあお前、何しに学校来たんだよ?」
「何って、それは……」
 勉強しに来たに決まっている。だが大橋の質問は、そんな答えを求めるものないことくらい私だって分かっていた。確かに、私は何しに学校へ来たんだろう。先輩が学校を休むことくらい、駅のホームで気付いていたのに。
「大橋」
 私は机の横に引っ掛けた鞄を掴むと、おざなりに肩をさすりながら答えた。
「また寒気がしてきた。やっぱり風邪だよ、俺は」
「おう。そうだろう? じゃあさっさと早退しろ。お前のことは俺が伝えておくから」
 満足げに頷く大橋に見送られ、私は高校を後にした。

「……とは言ったものの、どうしたもんだか」
 威勢良く高校を飛び出してきたまでは良かったのだが、いざ商店街の入り口までやって来ると急に私の足取りは重くなってしまった。別に篁先輩の家が分からない訳ではない。地元の人間で篁先輩の実家である電気屋を知らないものはいない。だが、
「いきなりご自宅に行って良いものか……こういう時に手ぶらで良いものか……」
 買い物をする客として行った事はあるが、篁家の敷居を跨ぐ来客として行くのは初めてである。俄然、不安になって来て思わず大橋に電話してしまったが、よく考えたら向こうは授業中である。出る訳がない。それに格好を付けて出てきた以上、女性のお宅にお邪魔する時は何を買って行けば良いかなどと恥ずかしくて聞けない。
取りあえず、商店街の中で一番評判の良いケーキ屋を目指してアーケードを潜った私は、すれ違った人影に思わずはねるように振り返った。俯いたまま、力なく歩くその人は、
「篁先輩!」
「え……清水君……なんで? 学校は……」
「学校どころじゃないですよ。そういう先輩だって、学校休んだじゃないですか」
 私の姿に気付くと、篁先輩はらしくもなくうろたえた。今日の先輩は何かおかしい。普段の読書に全てを捧げている先輩でも、スイッチの入ったアクティブな先輩でもない。
「先輩が心配で様子を見に来たんですよ。昨日はあれからどうしたんですか?」
「清水君……私……」
 俯いたままの篁先輩の肩が震えている。
「ちょっと、先輩! 大丈夫ですか……」
 慌てて駆け寄る私に、篁先輩は倒れるようにして身体を預けて来た。どうにか抱き止める……先輩は泣いていた。
「いや、先輩。そんな、泣かないで下さいよ」
 あまりの事態に私は慌ててしまった。しかし篁先輩の嗚咽は止まりそうにない。時折漏らす声も震えている。だからといって先輩を置いていく訳にはいかない。先輩の背中をさすりながら、どうにか引き返した先は……「空の雫」だ。仕方がない。ここしか匿ってもらえる場所が思い当たらない。
「こんにちは……」
 先輩の肩を抱いたまま店に入ると、カウンターで新聞を読んでいた小暮店長は「だから年上には気を付けろって言っただろ?」などと言いながら、どう解釈したのかは分からないが、エプロンを外して外出の準備を始めた。店内に客はいない。
「おい清水。店番任せたぞ」
 そう言って、去り際に小暮店長は店のドアに下げてあったプレートを「準備中」にめくると新聞片手に出て行ってくれた。
「先輩。取りあえず、椅子に座ってください。大丈夫ですか?」
 篁先輩は無言で頷くと、私の引いた椅子にゆっくりと腰を下ろした。向かいの席に私も腰を下ろそうかと思ったが、厨房を借りることにした。
「先輩……何か飲みませんか? 暖かいものを飲めば気持ちも落ち着きます」
「ごめんね……清水君」
「何で謝るんですか? ちょうど先輩の家に行こうと思ってたんです」
「ごめん」
 マンデリンの豆を二杯分だけ掬い取り、ミルに入れる。回転刃が豆を砕く音が少しだけ、会話を中断させる。
「私……何の意味もなかったわ」
「どうしてそんなこと言うんですか」
「だって、あの男子を止めること出来なかった」
「それは先輩の責任じゃ……」
 ドリッパーの中で膨らんでいく珈琲の粉を見つめる私に、先輩は被り振った。
「もう清水君だって気付いているでしょう? あの男子が、誰に演技を見せていたか」
 昨日は篁先輩の後を追い駆けるばかりで考えている暇はなかったが、私は今一つの結論へと達していた。
「あの男子は、お兄さんの復讐をしたんですね」
 私はサーバーに溜まった二杯分の珈琲をカップに取り分ける。
「先輩は直接、仲丸さんに話を伺ったんですよね。俺は、大橋から新聞を見せてもらいました。仲丸さんは自分の書いた記事の中で石川部長の喫煙には否定的な捉え方をしていましたよね」
 湯気を立てるカップをソーサーに乗せる。篁先輩はスプーンを使わない。そのままテーブルへと運んだ。
「学校側は近隣の住民が目撃していたと言っていたけれど、その住人の通報は嘘だったんですね、きっと」
「……正確には、誤認したのだと思うわ」
 自分のカップもテーブルに運び、向かいに腰を下ろすと、篁先輩はようやく口を開いた。
「多分、石川部長は本当に頼まれて煙草を買っただけだと思うわ。そしてその現場を誰かに見られ、咎められた。やましいことなどしていない部長はきっと適当にあしらったんだと思う……でも、それがいけなかったんだわ」
 石川部長を咎めた人間は、恐らく正義感の強い人なんだろう。でなければ、煙草を購入する高校生のことを高校に連絡したりはしない。しかし、正義感とは個々人で少しずつ違ってくる。言うまでもなく、刑法に触れる行いは悪と考えれば良いだろうが、モラルや道徳観のみで問題とされる悪に対しては各々の中にある正義感で対処するしかない。私が昨日、ピンポンダッシュを拒んだように、通報者もまた高校生の喫煙など断じて許せなかったのだろう。
「通報者は怒りを覚えて高校に連絡したんでしょうね。石川部長の名前をどうやって知ったかは分からないけれど、もしかしたら何も悪いと思っていない部長は自ら名乗って身の潔白を訴えたのかもしれないわね」
 篁先輩が珈琲を一口啜る。「美味しい」と少しだけ微笑んでくれたことで、私の気持ちもいくらか穏やかになった。
「歪んだ正義感は得てして過ちを犯すわ。そもそも個人的な怒りと正義なんて同居する訳がない。通報者はきっと、話を大きくして高校に連絡したはずよ。そうしなければ、自分の忠告を聞き流したあの高校生に処罰が下らない。喫煙するような高校生は、停学でも退学でもすれば良いって」
 結果として、高校側は目撃者の証言を全面的に信じて石川部長を停学処分にした。
「石川部長はきっと、事の経緯を弟に話したのね。そして弟は許せないと思った。だけど、仇である通報者は高校に聞いても教えてくれない。だから」
「高校を休んで演技をしたんですね。お兄さんが煙草を買った自動販売機で、喫煙する高校生の」
 篁先輩は静かに頷いた。
「彼が残した五円玉三枚は、きっと最後の切り札だった。もし自分の探している通報者に出くわした時、自分はあくまでも煙草を買ってすらいないと主張するための証拠だった」
 それが昨日、篁先輩の言っていた五円玉にあの男子が託した意味だったのだ。
「でも、それだけじゃ心許ない。だからあの男子は証人を求めていたのよ。向かいの喫茶店で同じ紫馬肥高校の制服を着ている私に……」
 確かに篁先輩は、いつも店の窓からよく見えるカウンター席に腰を下ろして、放課後の時間を過ごしていた。ただ、運悪くも高校生が仇である通報者と出会ったのは、私たちが高校に行くため店を飛び出した後だったのだ。あの時、本来なら高校にいるであろう先輩を喫茶店で見つけた男子は急いで制服に着替えると、いつもの演技を披露しに行ったのだろう。イレギュラーな時間に見せることで、先輩に自分の意思を伝えたかったのかもしれない。
「それなのに私は……いなかった。小賢しい推理なんかに駆けずり回らなければ、あの男子は少なくとも事件を起こしたりはしなかったかもしれない」
 石川部長は言っていた。一度帰ってきたが、バットを取りに戻ってきたと。
つまり、あの男子の主張は通報者に届かなかったのだ。もしかしたら、バットを掴んで暴力に出るほど、屈辱的な言葉を掛けられたのかもしれない。
しかし、私が考えられるのはここまでだ。後はもう、あの男子にしか分からない。私たちは復讐を推理することは出来たが、その復讐に至るまでの全てを分かることは出来ないのだから。「……推理なんて、何の意味もないのよ」という篁先輩の言葉が今ようやく、分かった気がした。先輩の痛みを、知った。

          7

「……ねぇ、清水君。覚えてる?」
 それから暫らくして、篁先輩が言った。その表情は、少しこわばっている。
「昨日、私が推理なんて、何の意味もないものだって言ったの」
「覚えてますよ。あの発言は衝撃的でした」
「私、自分がとんでもない馬鹿だとは思わないわ。もしかしたら、みんなより少しは賢いのかもしれない。でも、そんなもの何の意味もない。みんなよりちょっと頭が回るからって、目敏く不思議なものを見つけてはその疑問を論理的に解き明かす。だけどそれが何になるっていうのよ。そう、野球部なら試合に勝てばみんながすごいと誉めてくれる。でも私たちは何だったのかしら……どれだけ知恵を絞って情報を集めて完璧な推理をしたとして、誰が誉めてくれるの?」
 結果として、誰にも見向きもされず推理小説研究部は廃部となった。
「分かってる。私だって、誰かに誉めてもらいたいからミステリを好きになったんじゃない。推理するんじゃない。でも、自分の大好きなことが意味のないことだと思い知らされ続けてきて……疲れちゃった。論理的に正しいかどうかなんて、世間は重要視しない。そんなことより抽象的で曖昧な感情こそが正しいし素晴らしいものなの。裸の王様を裸だって指差した子供と同じ……私、やっぱり馬鹿なんだね。清水君」
 私は何も答えられず、ただ黙って聞いていた。
「清水君」
 篁先輩がそっと手を伸ばしてきた。私の手を先輩の掌がそっと包み込んだ。
「私、本当はずっと清水君の気持ち、気付いてた。だけど、どうすれば良いのか全然分からなかった。私は嫌だった……自分まで曖昧な感情だけで全てを割り切ろうとするような真似……したくなかった。でも、人の気持ちなんて推理出来ないよ」
 篁先輩の掌はふるえていた。それは、私の責任だ。言わなければ伝わってさえいないと思い込み、先輩に気持ちを伝えようとしなかった私の責任だ。
「どうしたら良いか分からないから、いつもは上手にお喋りも出来なかった。ただ、不可解なことを前にした時だけは、何も躊躇わないでいられた。論理的であることが許される、私が私でいても良い時間を君と過ごすの、とても楽しかったよ」
「俺も、楽しかったです」
「清水君、私は頭の良い子は嫌いじゃない。だけど、本当は馬鹿な子が好きなのかも知れない。私がどれだけ悩んでも答えが出せなかった問題を、一言で解決してしまう……馬鹿な子が好き」
 それなら私は、馬鹿のままで良い。馬鹿が大声で叫んだ――大好きですと。(終)

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