「飯亭論議 夜カケルモノ」
著・福田 文庫
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私が、国民の祝日を利用して本棚を整理でもしようかと早起きをしたと知れば、麻生も琴似も、そして澄川女史でさえ驚きを禁じえないだろう。「自殺でもする気か? 身辺整理なんてらしくもない」といささかブラック過ぎるジョークを飛ばす琴似が目に浮かぶ。
だが、別に私が本棚を整理するのは身辺整理でなければ、引越しの準備でもないし、ましてや古本屋に持ち込むなんて気持ちは微塵もない。持っている本の重みは人生の重みであるという標語を胸中に掲げている私は、古本屋で本を買うことはあっても、売り飛ばすような真似だけは生まれてこの方、一度もしたことはないからだ。
では、どうして私は本棚を整理するためだけに、友人連中が揃いも揃って驚く早起きなどしたのか。早い話、本棚のキャパシティを通り越した蔵書たちがエスケープしたのだ。安普請のボロくて狭いアパートに一人暮らしの私は、いつも本棚の前で床に就いている。一方、本棚から溢れ出した本は地球の重力に従って落下した。大学に入り一人暮らしするに当たって、母親が何よりも心配したのは一人で私が起きられるかということである。それほど眠りが深く、朝は様々な方法で母親に叩き起こされてきた私であるが、落ちてくる本を全身で受け止める目覚ましは初体験であった。効果は抜群だ。目覚めは最低だが。
「本棚、買い足さないと駄目か……」
取り合えず、朝一番のコーヒーだけは淹れた私は、今までどうやって収まっていたのか検討も付かない本の山を眺めながらカップを傾けた。食器棚も洋服ダンスもないのに、本棚だけは二つある殺風景な部屋。ここにもう一つ本棚が追加されれば、もはや私が住んでいる部屋なのか本棚が住んでいる部屋なのか、その判断は難しくなるだろう。まぁ、ミステリ同好会の部長としてはむしろ誇るべきことじゃないだろうかとさえ思う。大学の公認サークルではなく、あくまで同好会に過ぎない私たちにとって蔵書イコール自宅の本棚なのだ。
「まぁ、寝床だけでも確保しますか」
誰に言うでもなく独りごちる。止せば良いのに、書物を整理する時の悪い癖で私はついつい一冊ずつ手にとってしまう。タイトルなど確認しないでまとめて壁に寄せて積み上げでもすればすぐに済むのだろうが、気が付くと目ぼしい本を開いてしまったりしている。そんなことをしている内に、一冊の文庫本が目に留まった。全く覚えのないタイトルに、ほとんど傷のないカバーを見る限り、どうやら積んでしまった一冊のようだ。CDのジャケット買いなる衝動は未だに理解の及ばぬ消費行動であるが、古本のあらすじ買いならその経験の枚挙にいとまがない。恐らくはその内の一冊だろうと思いつつも、何か惹かれるものがあり、ペラペラとページをめくっていると……
「……あ」
ページの間に茶封筒が挟まっていた。宛名も何も書かれていないその封筒は、しかし厳重に封がされている。ただ、その封を切る必要はない。この瞬間、全てを思い出したからだ。ぞんざいに扱ったのではない。言うまでもなく、金庫など持ち合わせていない私の部屋で、この茶封筒を隠すとしたらここが一番だろうとこの文庫本に挟み込んだのだ。
「もう一年は経つのか……」
時の流れとは無常である。あの人がその後、大学に戻ったという風の便りは聞いた覚えがない。やはり戻る意思などない休学であったのだろう。当時は私たちミステリ同好会もその学生生活を危ぶんだりしたものだが、今となってはとんだ思い過ごしであった。私たちにしてみれば、同好会の存在を左右する事件であったとしても、大学にしてみれば私たちの存在などは取るに足らぬ端役に過ぎなかったという訳だ。
あれはまだ、私たちが大学二年の頃のことだ。同好会から部としての昇格を目指し、そして部室を手に入れることを願って止まなかった当時の私は、まさか自らその機会を棒に振るとは考えてもいなかった。
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「折り入って、相談があるんだが・・・・・・」
そう言って、一品料理のタコザンギを手に中ノ島先輩が私たちの席に顔を出したのが、全ての始まりであった。場所はH学園大学に程近い定食屋<飯亭しゃもじ>の奥座敷。夜間の学生である私たちにとってのアフターファイブはこれからという時刻は、間もなく日付が変わろうかという時の事であった。
「それで先輩。相談というのは?」
先輩とは言え、直接的な上下関係はない。ただ中ノ島先輩は私たちH学園大学の自治会に所属していたので、当時まだ部室を大学から与えられず、こうして近所の定食屋で奥座敷を占拠してディスカッションを繰り返しているような弱小ミステリ同好会の人間でも面識はあった。
とは言え、往々にして顔を会わすのは部室の陳情か私たちの行き過ぎた情熱が苦情という結果を生んだ時にお咎めを受ける時のどちらかくらいなものなので、卓を囲む一角に先輩が座している状況は、それまでの血気盛んな雰囲気とは打って変わってどこか緊張感さえ感じさせるものになっていた。そんな状況を察したのか中ノ島先輩は、
「いや、そんな大したことじゃないんだ。いや、大したことではあるんだが……」
と、フォローを入れたのか更なるプレッシャーを私たちに加えたいのか分からない前置きをしてからようやく本題へと入ってくれた。
「お前たち、昨日大学のサークル棟で起きた事件のこと、知ってるか?」
「事件?」
生憎と私は知らなかったが、それまで黙ってカップ酒を傾けていた麻生が「俺、知ってますよ」と小さく挙手をした。この定食屋に来ては食事もそこそこでワンカップにすぐ手を伸ばすサークル随一のウワバミのこいつが、まだ泥酔に突入する前に先輩が訪ねてきてくれたのは、目下、同好会からサークルへの昇格を目標としている私たちにとっては不幸中の幸いであった。
「サークル棟三階の南側に面した四部屋が何者かに荒らされたっていうアレじゃないですか?」
「南側の四部屋って言ったら……茶道部、文芸部、数学研究会、写真部の四つですよね?」
と、これは私たちのサークルで紅一点の澄川女史である。
正式なサークル以外のポスターは認められない私たちの大学では一時期、ゲリラ的にキャンパスのあらゆる壁面を無断に拝借しては勧誘行為を繰り返す同好会がいた……言うまでもなく私たちだ。この時も中ノ島先輩にはしっかりとお叱りを受けた訳だが、そんな大半の学生から見れば自治会への通報に値する怪しげなポスターを見て唯一、同好会入会に名乗りを上げてくれたのが澄川女史である。
この当時、世間では大学の公認サークル内部で進入部員を標的にした婦女暴行事件が取沙汰されていた時期だった。言うまでもなく私たちは志だけは高い純然たるミステリ同好会であり、また今現在のところは私たちの大学には縁のない事件であったのだが、それでもこうした世論の中で入部届けを提出してくれた澄川女史には以来、私の心中ではその行動力と好きな作家は小栗虫太郎と澁澤龍彦という玄人好みの読書遍歴に敬意を表して澄川女史と呼んでいる。
「そうだ。事件が発覚したのが昨日の早朝だ。キャンパス内清掃のアルバイトをしているうちの学生が気付いた」
「相当荒らされていたんですか?」
いくら自分たちには部室がないと言っても、ここでざまぁみろと吐き捨てるほど心は貧しくない。貧しいのはあくまで財布の中だけである。そんな前置きをどうしてするのかと言われれば、部室荒らしの話を中ノ島先輩が私たちに持ちかけてきたということが分かった時点で、私の脳裏にはすぐさま「自分たちが疑われているのではないか?」という懸念が過ぎったからだ。とくに被害のあった四部屋には、私たちが一方的に対抗意識を燃やしていると公言して止まない文芸部が入っているではないか。これは拙いぞと内心では肝を冷やし始めていた私の心中を知ってか知らずか、先輩は深刻な顔で被りを振ると、
「いや、部屋自体は全く荒らされた形跡がなかった。鍵もしっかりと施錠されたままで、鍵穴にピッキングがされたような傷跡も見出せなかった」
「え? それじゃあ荒らされたって話はガセっすか?」
琴似のやつ適当なこと言いやがってと、麻生がワンカップ片手にぼやいた。琴似というのは私たちの同好会最後のメンバーである。今日のディスカッションには都合により参加していないが、もしやつが同席していたとしたら卓の隅っこで漬物でも齧りつつ、麻生に茶々を入れてさぞ賑やかであったと思う。つまりはそういうやつだ。
「いや、ガセという訳でもない。不法侵入と器物損壊があったことは間違いないからな」
「器物損壊? 窃盗じゃなくてですか?」
首を傾げる澄川女史に中ノ島先輩は「いや間違いない」と断言する。その横で「先輩は一応法学部なんだから失礼なこと言っちゃ駄目だぜ」と、したり顔の麻生が澄川女史を窘めるが、この酔っ払いは一応と言う方が失礼だということに気付いていない。先輩もやはり麻生の物言いの方が多少なりとも気に障ったのか、訂正を入れる。
「一応じゃない。ちゃんと来年には卒業出来るからな……それも器物損壊の件も間違いないぞ」
「じゃあ部室にあった物が壊されたんですか?」
「壊されたというよりは、正確には捨てられたんだがな」
「捨てられた? どこにっすか?」
「それぞれの部室の窓からだ。ええとだな……」
中ノ島先輩は難しい顔を更に険しくさせながら、人差し指でこめかみを小突きながら記憶を引っ張り出してくれた。
「茶道部が学園祭に使っていたという立て看板だ。そう、あのアルミ合板製のあれだ。文芸部は部室で飲んでいたレギュラーコーヒーの得用袋だったな。買い溜めしていたのを全部やられたらしい。全部で五袋……だったか。一袋が運悪く破裂していてコーヒーの粉が辺りに散らばっていた。次は……どこだったかな?」
「数学研究会ですよ、先輩」
「あぁ、そうだった。数学研究会は部室で使っているパイプ椅子が捨てられていた。しかしここは一脚のみだ。無論、部室にはもっと椅子はあったんだがな。フレームが歪んで組み立てにくくなっていたが、まぁ座れないこともなかったな。もっとも、この椅子は大学からの支給品だから、研究会の連中はさほど気にしてはいなかった。被害額という点から見れば最後の写真部が一番だな」
「カメラですか?」
麻生が先ほどの失態などなかったかのように、中ノ島先輩が持ってきたタコザンギに箸を伸ばしながら暢気に質問をする。この図々しさはむしろ尊敬に値する。先輩はタコザンギの皿を麻生の方に回してやると、
「いや、そうした高級品に被害がなかったのが今回の事件では不幸中の幸いだったと言えるな。俺には全く価値の分からんレトロなカメラが部室にはいくつもあったが、そちらは一切無傷だった」
「じゃあ写真部は何が捨てられていたんですか?」
「布団と枕だ」
「布団と枕?」
澄川女史が思わず訊き返す。私も同感である。まさか被写体ということはないだろうと思っていると、先輩は嘆息しつつ、
「泊り込みをする時に使用していたらしい……全く、部室での宿泊は禁止しているんだがなぁ。こっそりとすればまだ可愛いものだが写真部の連中、人数分の布団をしっかりと用意していた」
ちなみに全部で六組だそうだ。中ノ島先輩の言っていた被害額の意味がわかった。確かに布団の丸洗いを六組もすれば結構な金額になるだろう。とは言え、万年床の私には具体的な金額はピンと来ないので澄川女史に訊いてみると、「個人的には泣き寝入りはしたくない出費だね」とのこと。
「まぁ、布団くらい重いと落下点は定まってくるからな。捨てられた布団は全部重なっていたから、クリーニングに出すのは一番下の一枚だけで良いかも知れん」
「えー私はやだなぁ。野ざらしになっていた布団には寝れないです」
「まぁ、写真部は野郎ばかりのサークルだからなぁ。澄川さんみたいな繊細な気持ちを布団に抱いている人間はいないと思うぜ」
空になったワンカップを諦め悪く逆さに振っていた麻生が笑う。見兼ねた中ノ島先輩が店員を呼んでワンカップと日頃は決して頼むことのない一皿でお札が一枚なくなるメニューを注文してくれた。お前たちは? と訊かれたが、私と澄川女史は下戸なので遠慮した。
「……ともあれ、四つの部室はそれぞれの部屋にあった備品を窓から捨てられていた。落下点から見ても、それぞれの部室の窓から投げ捨てたと考えて良いだろう」
「つまり犯人は……あ、便宜上Mって呼びましょう。Mはわざわざ部室に侵入したにも関わらず、何かを盗むのではなく、窓から投げ捨てて逃げたということですか?」
「被害に遭った部の部長に部室を検めてもらったが、無くなっていたものは窓の下以外には何もないと言っているからな」
なるほど。何となくではあるが、事件の概要は掴めた。
確かに中ノ島先輩の言うとおりに不法侵入と器物損壊罪という立派な犯罪行為である。いやまぁ、犯罪行為に貴賎もへったくれもないだろが、この一連の出来事を事件と呼んでも何ら差し障りはない。ただ、一つ分からないことがある。それは、
「事件のことは大体分かりました。しかし先輩、どうしてそんな話をされたんですか?」
待望のお代わりが届いた麻生は上機嫌で「そりゃ部長。事件と言えばミステリ、ミステリと言えば我らが同好会だろうが。快刀乱麻に解決してやろうぜ」と胸を張ってニヤリとほくそ笑む……もう黙って飲んでいて欲しい。ちなみに部長とは私のことだ。ウチの同好会のメンバーは敬称ではなく、あくまで愛称として私を部長と呼ぶ。同好会だから会長と呼ぶのが正式なのだろうが、しょせんは単なる愛称の域を出ない役職名だ。今日まで誰一人として訂正しようとはしない。
だが名ばかりと言えど、私が部長として部員の醜態をフォローしようと愛想笑いを向けた先輩からは予想外の一言が飛び出す。
「その通り。解決して欲しい」
「え?」
「先輩、本気ですか?」
「俺がわざわざ冗談を言う為だけに酒の席へ踏み入るような人間に見えるか?」
……見えない。中ノ島先輩の表情はいつになく真面目で、これは恐らく何か理由があってのことだろうということが透けて見えた。本当に事件を解決して欲しければ警察でもに頼むだろうからだ。まぁ、もっともその場合には警察が自ら乗り出してでもそうするに足るものがなければ動いてはくれないのだが。
「警察には連絡したんですか?」
一応訊いてみる。
「していない。他の場所で起きた事件になら、すぐにでも市民の義務を果たすが……場所が悪い。サークル棟だ。下手に警察でも来てみろ? 学生の自治権はあっという間に剥奪されるぞ」
不法侵入と器物損壊だけで、果たして本当に中ノ島先輩が危惧される事態にまで転落するかはともかくとして、可能性の上では決して否定は出来ない話だ。確かに自治会として長らく学生の自由を守り続けた先輩としては、穏便に解決させたい事案であろう。いやしかし、
「でも、先輩。解決って言っても、今お聞きした話だけでMを見つけるのはちょっと……」
私の言いたかったことを、果敢にも澄川女史が進言してくれた。それに続けとばかりに酔っ払いも口を開く。
「そうですよ、先輩。俺たちはミステリに詳しいだけであって、指紋を取ったり、聞き込み捜査で上手いって訳じゃないんですから」
「そんなことは百も承知だ。もし仮に、今回の事件がこれで終わっていれば、自治会が率先して緘口令を敷けばそれで全ては済む話だろう? こちらとしては事を荒立てたくはないのだからな」
「……ということは、まだ何かあったんですか?」
「あぁ。表向きは各サークルの連中がふざけて窓から物を投げたということにして、俺たち自治会は後片付けを済ませた。その後はさっきも言ったように被害のあったサークルの部長に盗まれたものは壊されたものがないかを確認させて一件落着と行くつもりだったんだがな……タレコミがあった」
雰囲気作りと言う訳ではないだろうが、先輩は少し声のトーンを落としてから続けた。
「俺の携帯に電話があった。自治会室のドアに連絡先として俺の番号が書いてあるからな。え、電話番号? それが分かれば苦労はしない。相手は公衆電話からで、ご丁寧にボイスチェンジャーか何かで声まで変えていた。匿名希望もそこまで徹底していると気味が悪くなる」
そのタレコミ相手の行動には少し引っかかるところがあった。
ふと横を見やると、澄川女史も恐らく気になったのだろう。視線が合い、無言で頷いた。一方の酔っ払いは、ワンカップを空にしていた。下手に口を開かれるよりはマシである。
「それでその……あ、便宜上Kって呼びましょう。Kは先輩に何を?」
「悩みの種だな。甲高くなった声でその、Kか? Kはこう言いやがった。『今日起きた事件の犯人は関係者の中にいる。探し出せ』とな……」
事件の犯人は関係者の中にいる、か。
中ノ島先輩の言葉を反芻してみるが、これはやはり事件がただの愉快犯によるものではないことを意味しているとしか思えない。もっとも、変声機を使わなければ電話も出来ない人間の言うことを真に受けて考えればの話であるが、その行動に怪しい点はあるものの、これに関してはKを信用しても良いだろうと私は思った。
「何も不審者の言いなりになるつもりは毛頭ない。ただ、そういう可能性を根拠がないとは言え示唆されておいて放っておけるほど、俺も暢気ではないということだ」
「それで事件の解決のため、俺らに白羽の矢が立ったということですかぁ。いや、部長。俺らも名が売れてきたのかもな」
酔っ払いは中ノ島先輩直々のご指名に大層ご機嫌なご様子だが、素面の私は諸手を挙げて喜べるほど愉快ではない。指名理由にはさほど興味はない。無論だが、普通のミステリ研究会は名が売れたからといって事件の依頼が来るなんて漫画みたいな話がある訳もないのだし、大方、暇そうな連中で事件と名の付くものには目がないのだろうという、世間一般の方々が私たちのような人間の集まりに対して抱く偏見を先輩も少なからず持っていたのだろうと思う。まぁ、完全なる誤解と言う訳でもないのは確かだ。現実の世界で起こる事件なんて、大抵は怨恨や金銭トラブルによる殺人であり、その犯人は逃亡こそすれ、殺人現場を釣り糸や氷で密室にしたり、時刻表に目を血走らせてアリバイを作ったりはしない。だから、今回の事件みたく分りやすい謎が提示されていると、興味を覚えることは否定できない。ただ、
「先輩。僕らもこれで一応大学生です」
「ああ、知ってるよ」
「だから事件だよと言われて、無邪気に少年探偵団結成だ! ……とかやるほど純粋じゃないんです……すみません」
なるべくオブラートは多めに使って話してみたが、早い話、メリットがないのだ。だが、さすがに先中ノ島輩もその点に関しては察しがついたようで、いつもより豪勢な晩酌にとうとう鼻歌交じりの麻生に向き直ると、
「麻生。酒旨かったか?」
「はい! 肴も旨いです」
実に良い返事である。麻生の返答に中ノ島先輩は満足げに頷くと、私に向き直る。
「部員は満足しているみたいだが、あれで前払いじゃ駄目か」
駄目に決まっている。決まっているが、先輩の手前もあるので、たっぷり時間をかけてから私はゆっくりと首を振った。
「……申し訳ないんですが」
「まぁ、俺もこれくらいで引き受けて貰えるとは考えてはいない。謝礼はちゃんとしたものを予定しているぞ」
「いや、あの現金を受け取るというのはちょっと……」
「誰が金だと言った? 大体、お前らに探偵の真似事をさせた謝礼金なんて名目で自治会費を割ける訳ないだろう」
謝礼は自治会で工面するつもりなのか。しかしよく考えてみればそれは当然のことで、いくら中ノ島先輩が自治会の仕事に情熱を持っているからといって、ポケットマネーまで使ってこんな依頼をしてしまっては、行き過ぎた忠誠心というものだ。それなら謝礼とは何なのか。自治会で工面が出来て、それでいて名目上も角の立たないもの……しかし発想の乏しい私には金銭以外のものを思いつかない。すると、
「部室だ。お前ら欲しいんだろ?」
「そ、それは勿論……! ですが」
思いも寄らぬ謝礼の正体に思わず頷く声も裏返る。確かに部室は私たち同好会の悲願である。そもそも、中ノ島先輩と私たちの面識はこの部室陳情の繰り返しの中で育まれたものである。だが、面識が生まれて育つほど陳情しているということは即ち、私たちはその度に良い返事を貰えずにいたのだ。確か、理由は毎度変わらずで、『部室の空きがない』という絶望的なものであったはずだが……
「考えても見ろ。えっと……あ、Kか。そのKが言うところの犯人が本当に事件の関係者であるとすれば、犯人は部室を持ったサークルの代表者ということだろう? だとすれば、お前らが見事に犯人を見つけることが出来れば、そのサークルが存続することは非常に困難なことだ。少なくとも俺は認めんし、大半の自治会メンバーは俺に同意してくれるだろう」
中ノ島先輩が言いたいことが分かった気がした。
いくら穏便に済ませたい自治会とは言え、犯人がはっきりとしてなおもお咎めなく放置しておくほど気前良くは出来ない。とすれば、例え法の裁きからは逃れられたとして、サークルの廃止は避けられない処分であろう。むしろ温情に近いと言って良い。そうなれば、部室には必然的に空きが一つ生まれることになる。
「その後釜にお前たちがなれるよう、俺からお膳立てをしてやろうということだな」
「でも、ウチは会員が足りないんですよ?」
正式なサークルとなるには、メンバーは六人以上が必要とされている。だが、ウチにはまだ四人しか在籍していない。しかし中ノ島先輩は心配げな私を笑うと、
「真面目に活動する必要はないんだ。名義貸しくらいはこちらでしてやるよ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、この謝礼はKが言う通り関係者内に犯人がいて、お前らがそれを証明出来た場合に限られるがな」
中ノ島先輩の話はこれで終わりのようだった。腕を組んで私に向き直った先輩の目が「どうする?」と私に問いかけている。
こちらとしては考えるまでもないのだが、サークルの舵取りを独断で下すほどの決断力を持たない私は、二人を振り返る。いつの間にやら手帳を取り出していた澄川女史は、走らせていた筆を止めると不敵な笑みを浮かべた。どうやら女史のヤル気は十分のようだ。麻生は……聞くまでもない。飲み食いした分はしっかり働いてもらう。
「引き受けさせて頂きます、先輩」
「うむ。よろしくな」
大げさに握手など交わしてみる、ともあれこれで依頼成立である。こうして、私たちは大学のサークル棟で起きた奇妙な事件に関わることとなった。
話の上で登場人物に符丁を付けることを好む澄川女史に倣えば、Kの不審なタレコミも、そしてMの犯罪行為に隠された真意も、この時はまだ見当さえついていなかった私たちは、帰りしなに伝票を引き受けてくれた中ノ島先輩の男気を称えながら暢気に帰路へ着いたのであった。
2
翌日、私たちは昨日のディスカッションを欠席した琴似に事件のあらましを説明するため、昼から大学に集まっていた。「ふぅん。ま、良いんじゃねーの? 宝くじも買わなきゃ当たらない訳だし」というのが、手帳片手に澄川女史の話す概要を聞き終えた琴似の感想であった。
「それで、部長はどう考えてるんだ?」
「まぁ、まだ現状じゃ考えようにも材料が足りないからなぁ」
夜間の学生にとっては同じ校舎であるとは言え、昼に足を踏み入れる大学はまた違う顔を私に見せる。私たちの時間には閑散として静寂に満たされている図書館横のベンチも、今は少しやかましく思えるほどの盛況ぶりだ。もう講義は始まっているだろうにどちらを向いても学生だらけで、彼らは一体何しに大学に来ているのかと思ってしまう。
「だけど、一つだけ気になる点がなくはない」
「ほう。事件の依頼を受けた時点でもう糸口を見つけるとはな。よ、名探偵」
琴似の茶化しに対していちいち青筋を浮かべたり、反論を並べたりしていては体が持たないということをこれまでの付き合いで把握しているので、無視して話を進める。
「これは多分、澄川さんも気付いているとは思うんだけど、タレコミをしてきたKは純然たる被害者ではないだろうな。何か裏がある」
ここで一応言葉を切って、三人の反応を窺う。やはり予想通りというべきか、澄川女史は昨晩に中ノ島先輩の話を聴いていた時点で気が付いていたようで深く頷いている。琴似に関しては頬杖をついたまま然して驚くでもなく「ほー」と呟き、麻生はと言えば、机に突っ伏したままだ。昨日あの後に二軒ほどハシゴして飲み直したらしい。
「ま、それじゃ一応はその根拠を訊いておこうかね」
「根拠というほどのもんじゃないけどな。ただ自治会に突っ込んだ真相究明を求めるだけなら、わざわざボイスチェンジャーまで用意してタレこむ必要はないだろ? 先輩に声の知られている人物がこのタイミングで声を変える。自分は今回の事件の関係者ですと言っているようなもんだ」
「そうそう。それにね、KはMが誰なのか検討がついてるんだと思う。でも自分から直接その名前を言うことが出来なくて、そんな真似をしたんだろうなって」
いつの間にやら取り出したプレッツェルを摘みつつ、澄川女史が付け足す。あ、すみません……差し出された子袋から一つお相伴に預かる。うん、美味しい。物心付いてから一度も目覚まし時計を有効活用したことがなく、朝食抜きの私には余計のこと美味である。恐縮しつつ、もう少し頂いてから私は席を立った。
「よし行くか」
「何? 買いに行くほど美味かったか?」
「馬鹿。何のために昼から集まったと思ってるんだよ」
被害に遭った四つのサークルは全て一部のサークルである。事件当日の話を訊くためには少しでも早く来ようと、半ば瀕死の麻生にも無理を言って召集をかけたのだ。とは言え話の内容が内容なだけに、その向こう見ずな酒の飲み方のお陰で学部や学年の境を超えて知り合いの多い麻生に期待していたのだが、この調子ではまともに会話出来るかさえ怪しいところである。まぁ、最悪の場合は居合わせるだけで良い。
「琴似、肩貸してやれよ。俺も運ぶの手伝うから」
「えー嫌だよ。吐かれたらどうすんだよ? クリーニング代請求するぞ」
ぶつくさ言いつつも麻生を抱え上げる琴似。口は悪いが根は良い奴というよりも、この弱りきった好敵手をからかうのも一興と思いついたのだろう。「大丈夫か? 出るのか? 出るのか?」と上辺だけは気遣いに響くその声はどこか楽しげだ。
「私も手伝う?」
「いや、大丈夫。クリーニング代を請求するにしても俺らの方が麻生も安上がりだろうし」
「……吐くの決定かよ」
顔をしかめつつも、土気色の顔で下を向いている麻生を少し揺すってみる琴似。他人をからかうためならリスクを負うことも厭わないこの図太さは私たちメンバーの中では希少である。ただ、役に立ったことはないので「貴重」ではなく「希少」止まりであるのだが。
「琴似……覚えテロ」
「え、何? ごめん聞こえないわ。大きな声でもう一度どうぞ」
「もう……いい」
「何だよ、張り合いねーな」
果敢にも大きく口を開いたが、発射の引き金となる恐れがあると思ったのか押し黙りうな垂れた麻生に、琴似が不平を漏らす。こんな調子では本格的に役立つか不安になっていた私だが、この喋ることもままならぬ麻生が意外な効力を発揮することになる。
「麻生君、大丈夫なの?」
「ご安心を。袋は持参してますので」
「いや、その前に手を打って欲しいんだけど……」
琴似の中途半端なフォローには露骨に嫌そうな顔を見せるものの、茶道部副部長の真駒内さんは薄畳の上に麻生を寝かせてくれた。心配そうに時折、麻生を見つめる澄川女史だが、それでも真駒内さんの点ててくれたお茶とお菓子に心奪われがちだ。私なんかはもうすでに茶碗を空にしているし、琴似はビニール袋を片手にお茶請けの羊羹を頬張っている。
そう、これが意外な効力だ。もし麻生が五体満足の状態で聞き込みに訪れたら、ここまで腰を据えて部室に上がり込めはしなかっただろう。馬鹿と鋏と二日酔いも使いようである。
「……それで何の話だったかしら?」
「和服がお似合いですね。その格好で通学されてるんですか?」
「そんな訳ないでしょ。今は結構便利な着物も出てるのよ。伊達締めとかもマジックテープで留められるし……って、そんな話じゃないわよね?」
「……琴似、少し口開かなくて良いぞ。あ、すみません。実は先日の事件に関して少し」
やはり愉快な話題ではないようだ。着物姿の似合う和風美人の真駒内さんだが、穏やかさが際立っていただけに眉根を寄せたお顔はかえって凄みがある。私は慌てて早口に取り繕う。
「いえその、中ノ島先輩に頼まれまして。先輩は自治会の仕事が多忙なんで私たちが来たんです。本当ですよ?」
「あぁ、中ノ島君が? ふぅん……君たち、自治会なの?」
いえ、ミステリ同好会ですと答えそうになった私を琴似がそれとなく制すると、何ら躊躇いを見せるでもなく、そうですよと頷く。確かに真駒内さんと面識があるのは麻生だけだし、部室も持たない同好会のメンバーなど一般の学生が把握している訳がない。円滑に情報を聞き出すには自治会のふりをした方が得策かもしれない。
「と言っても、見習いみたいなもんで。多方面で顔の聞く麻生に協力してもらって詳しい話を伺っているところなんです」
「へぇ、そうなんだ。ご苦労様だね」
「いえいえ、それほどでも」
「いや、麻生君がね……本当」
愛想笑いを浮かべる琴似を通り越して、真駒内さんの同情的な視線が横たわったまま動かない麻生に向けられる。もしかしたら真駒内さん、琴似みたいなやつは嫌いなのかもしれない。もっとも、こいつの第一印象が良かった人なんてそうそういない。だが、そんな自分の勘違いなどまるで気にした様子もなく、琴似は畳み掛ける。
「他の部の方々も協力してくれていますので、どうか茶道部もお願いします」
これも嘘である。まだ他の部には顔も出してない。先ほどまで崩していた足をきちんと正座させて頭を上げる琴似だが、もしその顔を覗き込んでみたら舌でも出して笑っているかもしれない。だが、この「ほかの部の方々も」という殺し文句が効いたのか、真駒内さんは「私部長じゃないから、大したことは知らないわよ」と断りを入れつつも了承してくれた。琴似のスキルである図太さが「貴重」に昇格した瞬間である。
「それで、何が訊きたいのかしら?」
「何が訊きたいんだ、部長?」
「え、あぁ……そうですね」
急にバトンを渡されて思わず声が上ずった。それにしても、あれだけ周到に嘘を付いておいて私を真駒内さんの前で部長呼ばわりするのはいかがなものか。内心では肝を冷やしつつも、私はまず一番気になっていたことを確認する。
「事件のあった日に、部室の戸締りをしたのはどなたですか?」
「ええと、私ね。部長の常盤は先に帰っちゃったみたいだったし、その日は常盤と私しか部室に来てなかったからね」
「みたい、というのは?」
「いつもは一緒に帰るんだけど、あの日は頼まれた用事を済まして部室に戻ってきたらもういなかったのよね。まぁ、その後に用事出来たから帰るってメール来てたから私もすぐ帰ったけど。あ、言っておくけど、鍵はちゃんとかけたわよ? この部屋、結構高価なものも置いてあるんだから」
見ると、真駒内さんの後ろには衣装ケースと思しき大きな箱が鎮座している。スーツケースの例えではないが、人が一人くらいは余裕で納まりそうなあのケース一杯に着物が入っているとしたら……着物の相場など分からないが、高額になることくらいの予想は付く。
ちなみに部室の鍵は、サークル棟の一階にいる守衛さんに返す決まりになっており、事件当日も全てのサークルは鍵を返却していた。この点に関しては三階に上がる前にきちんと確認を取っているし、鍵を返していないような不届き者がいれば、中ノ島先輩も私たちに頼む前にその人物を問いただしているだろう。
「それから、この部室で何か盗まれたものはありませんか?」
「盗まれたもの? 別に何もないわよ。窓から看板捨てられただけ」
言われて、部屋の窓を見やる。探してキョロキョロするまでもなくすぐに見つかる。どの部室も同じ外倒し窓だ。窓枠部分を外に倒して開くタイプのもので、換気のためか今はうっすらと開けられている。少し気になったので訊いてみる。
「窓は、開けっ放しなんですか?」
「え? あぁそうね。さすがに冬は閉めてるけど」
それはそうだろう。口には出さないが。
「ほら、サークル棟ってどこも全面喫煙じゃない? このご時世に」
「まぁそうですね。さすがに他の校舎内は禁止になりましたけれど……」
それでも私たちが入学した頃はまだ、キャンパスと言わず教室を除いては至るところで煙草が吸えたのだ。今にして思えば、喫煙者である私にとっては夢のような環境であったと目を細めてしまう訳だが、
「サークル棟だって禁煙にして欲しいくらいよ。廊下にまで灰皿設置されてるから、窓を閉めて帰ったりしたら畳までヤニ臭くなるのよ?」
「はぁ、それは……迷惑ですね」
「そうよ。ウチの部なんて誰も吸わないのに、消臭剤買ってるんだから」
思い返すだけでも腹立たしいのだろう。フローリングの床に敷いた薄畳を撫でる細い指先が喫煙者の私には怖い。ニコチンの切れかけていた私は危うくポケットから煙草を取り出すところであった。こっそり押し戻しておく。
「まぁ、そんな訳だから夏の間がずっと窓を開けっ放しね」
「少し無用心じゃないですか?」
「心配性ね、あなた。ここ三階よ? それに他のサークルだって大抵は換気のために窓は開けて帰るわよ?」
そうだったのか。真駒内さんの口ぶりから察するに、どうやら喫煙者最後の砦と化しているこのサークル棟では、窓を少し開けておくのは常識であるようだ。部室を持たない野良の私たちには縁のない常識だ、ふん……まぁ良い。気を取り直して質問を続ける。
「あ、あと部室の鍵を複製したりはしてないんですか?」
「すれば便利なんでしょうけどね」
「してないんですか?」
「……ちょっと、あなた本当に自治会なの?」
突如として茶道部に暗雲が立ち込める。あれ、もしかして何かいけないことでも訊いてしまいましたか? ……などと、真駒内さんに質問してしまっては一巻の終わりなので曖昧に笑っていると、琴似まで大仰に笑い出した。一瞬、頭がおかしくなったのかと心配したが、
「いやぁ、茶道部は鍵の複製をしてないんですね。ご立派です」
「自治会にばれたらペナルティー食らうからしないだけよ。本当は不便なんだから」
「いやはや、申し訳ないです。でも、こいつみたいにとぼけて質問するとボロを出すサークルもたまにはいるんですよ。ま、抜き打ちテストみたいなもんです。お気を悪くされたなら謝ります……ほれ、部長」
「あ、すみませんでした」
琴似の芝居で呆気に取られていたが、脇を小突かれて慌てて詫びを入れる。後で琴似に説明されたのだが、どうやらサークルの鍵に関して結構厳しく管理されているようで、複製した場合には最悪、部費が一年カットされるという厳罰があるらしい。ともあれ、茶道部を含め、多くのサークルが鍵を複製していない理由は分かった。と、
「ねぇ、ぶ……いや、水車町君」
私の肩を澄川女史が叩く。彼女は機転を利かせて呼び方を変えてくれた訳だが、日頃呼ばれ慣れていないので一瞬だが呆けてしまった。あ、ちなみに私の本名は水車町と言います。以後、よろしく……などと挨拶している場合ではなかった。
「どうしたの、澄川さん?」
「そろそろお暇しよう」
「え、どうして? まだ質問が……」
訊きかけて、私にも澄川女史の顔に浮かぶ憔悴の意味が分かった。
それまで大人しく横になっていた麻生が、怪しい動きを見せ始めている。ヤニの匂いが付くことも嫌がる真駒内さんの前でリバースでもしたら……結果は想像するに難くない。
「あ、真駒内さん。お茶ありがとうございました。おい、琴似!」
「へいへい」
「とっても美味しかったです。ありがとうございました。今度は自治会とは関係なくお邪魔したいです」
丁寧なご挨拶は澄川女史に任せて、私と琴似は麻生の両脇を抱えると一目散に茶道部を後にした。気持ちは爆発物を発見した刑事のそれだ。少しでも被害の少ない場所へ。半ば引きずるようにして麻生をサークル棟の外へ連れ出したのは爆発する直前であった。間一髪である。
奇しくもそこはサークル棟南向きの通路。窓から物が投げ捨てられた現場だった訳だが、どうやら第二の事件の現場にも相成ってしまった。そしてその犯人は、犯人だけに今吐いていると言う訳だ。お後が宜しいようだが、肝心の事件はまだ全然解決していない……
3
「おい、大丈夫か? 麻生」
「……うるせー、この鬼畜め。真駒内さんの前で俺に恥をかかせやがって」
「いや、だから悪かったって麻生」
「くそ、狙ってたのに……和服美人」
「どうせ無理なんだから良いじゃねーかよ」
不貞腐れる麻生を宥めながら、私たちは依然としてサークル棟の外にいた。どうにか死力と機転を利かせた麻生が草むらで爆発させてくれたので、私たちは事後処理を放棄して少し離れたベンチで麻生を介抱……しているつもりである。
「今、澄川さんがトマトジュース買いに行ってるから待ってろ」
「お前が行けよ、馬鹿」
「うるせーな。もう一回揺するぞ? ん?」
「部長、こいつ何とかしてくれよ」
「んーあぁ。琴似、控えめにな?」
「部長!」
麻生の断末魔の叫びも、どこか上の空である。そんなことより、先ほどまでに得た情報を頭の中で整理することが先決だ。退出が慌しかったので、色々と忘れてしまいそうなのだ。
「……本当だ。どこも窓が開いてるな」
とりあえず、煙草に火を点けた私は、紫煙の向こうに並ぶサークル棟の窓を眺めた。事件のあった三階だけでなく、どこの部屋も外倒し窓をうっすらと開けて換気をしている。その全てが嫌煙者の手によるものではないだろうが、喫煙者でも客観的には煙草の煙を許せない身勝手な人間は多い。かく言う私も、自分で煙草を吸っておきながら部屋のカーテンが黄ばむのは耐え難いと思っている大馬鹿野郎である。
「なぁ、琴似。あの窓から隣の部室に侵入出来ると思うか?」
煙草の先で指し示した窓を、琴似はボンヤリと眺めていたが、やがて一言。
「無理じゃね?」
「だよなぁ」
結論が出た。まぁ厳密に言えば、限りなく不可能に近いだけですごい頑張れば出来なくもないかもしれないというのが私の結論だ。隣の部室との間隔は……ざっと見ても三メートル以上はある。何か棒切れでも窓の隙間に突っ込み、侵入口をこじ開けること自体は出来そうだが、問題は侵入である。犯人が身軽で身長三メートル以上の体躯の持ち主であれば、犯行は容易いだろうが、残念な事にウチの大学にそんな規格外の人物がいるという話は聞いたことがないし、スパイダーマンも当大学には籍を置いていないだろう。
「やっぱり内部犯か?」
「そりゃそうだろう。鍵を盗まれた形跡はない訳だし、仮にそれぞれの部で鍵を複製していたとしても、四本全部持っている奴がいましたなんて解答はナンセンスだろ?」
「駄目だな、美しくねーな」
別に犯人であるMが自らの犯行に、私たちミステリ同好会の人間が求めるところの形式美を追求しているかと言われれば、そんな証拠はどこにもない。ただ、ミステリ好きとしての願望である。不謹慎に聞こえるかもしれないが、これはバスケ部がダンクシュートを決めたがるのと、また野球部のピッチャーが出来もしない変化球を投げようとするのと同じくらい純粋な気持ちなのである。
「じゃあ、澄川さん戻ってきたら残りの部室も当たってみるか」
「そうだなぁ。茶道部ではそんなに目ぼしい情報もなかったしな。部長の常盤さんとやらもいなかったし」
少しばかり気になる点はあったのだが、ミステリ好きの悪癖で手札はそうすぐには披露しない。もっとも、空振りの時に総スカンを食らうのが嫌だという見栄もある。
「お、部長。見てみろよ」
自分も一本取り出し、咥え煙草でブラブラしていた琴似が声を上げる。呼ばれて近寄ってみると、地面を顎で指す。そこには周りの土とは明らかに色の違うこげ茶色の粉末が撒かれていた。
「これだな。飛び散ったコーヒーの粉ってのは」
「あぁ、文芸部の窓から捨てられたやつな」
思わずサークル棟を見上げてみる。確かに、文芸部の窓から見てちょうど真下の位置である。あの高さから落とせば袋が破けるのも無理はなかろう。むしろ一袋の犠牲で済んだことは幸運である。恐らく破けた一袋が後続のクッションとなったのだろう。
暇なので周囲にも視線を配る。さすがに布団の落ちた痕跡というのはよく分からなかったが、数学研究会の位置にはパイプ椅子の落下で出来たろう窪みが見つかった。これは垂直に落としたようで、少しばかり地面が窪んでいるだけだが、茶道部の下はとても分かり易い。例えて言うならアニメのキャラクターが高いところから落ちた跡のようなものだ。地面に立て看板の骨組みの跡が綺麗にスタンプされていた。飛び散ったコーヒーの粉もろとも押し固めて凹んでいるところから察するに、立て看板は結構しっかりとした作りのものかもしれない。それに想像していたものよりずっと大きい。私の身長も軽く追い越すほど……いや、待てよ。これは少し……おかしくないだろうか?
それに、そう言えば茶道部で立て看板見せて貰うのを忘れていた……まぁ、澄川女史ならチェックしてるかもしれないな――
「してるよ。立て看板でしょ?」
「うおっ!」
しゃがみ込んでいる背後からいきなり声がかかったので、思わず飛び退いてしまった。口から不覚にも落としてしまった煙草を指差して「ポイ捨て禁止ー」と笑うのは澄川女史である。手にはビニール袋が提げられていた。
「はい、部長。缶コーヒー。ブラックだったよね?」
「あ、すんません」
受け取った缶コーヒーをとりあえず一口。うん、いつも通りで缶コーヒーは美味しくない。しかしそう思いながらも、出先ではつい飲んでしまう私は立派なカフェイン中毒者かもしれない。ついでにニコチン中毒も自認している私は女々しくも落とした煙草にもう一度火を点す。さすがに貧乏臭かったか、澄川女史は「一本あげるよ?」と、ビニール袋をガサゴソやって愛煙している銘柄を取り出すが、そこは丁重に辞退する。細巻きのメンソール煙草をファッション感覚で吸うような性格ではない澄川女史は、口にする煙草もキツいもので情けない話、私には少し刺激が強過ぎるのだ。
「それより澄川さん。俺が何考えてるかよく分かったね」
「だって部長、考え事する時は思考が口から漏れてるもん」
「え……」
自分では全然気付いていなかったが、それって早い話が独り言だろう。何ともはや、隙の多い人生である。これからは気をつけよう……というところまで考えて、澄川女史を見返すと、「あ、大丈夫。今のは漏れてないよ」とのこと。これで一安心である。
「それで、立て看板はあったの?」
「うん、あったよ。部屋の隅に横たえてあったから部長は見てないでしょ」
「お察しの通り、全く見てなかったんだ。どんな看板だった?」
「どんな……うーん、普通の看板だったよ。裏を向けて置いてあったから何が書いてあるかは分からなかったけれど、角材の骨組みにアルミの合板が取り付けられてるやつ」
「大きさはどんなだった? 俺より大きかったでしょ?」
「え、そうだなぁ……部長が横になってくれれば」
よし来た、と言って地べたに寝転がる訳にもいかない。私は片手片足を持ち上げて精一杯伸ばしてみた。最近運動不足のせいか体勢が維持出来ないぞ……もし、サークル棟から事情を知らない人間が見たら、きっと私はただの馬鹿にしか見えないんだろうな、なんて悲観していると、澄川女史が頷いた。
「うん、ありがと。やっぱり部長よりも大きい看板だったよ」
まぁ、丈に関しては想像通りである。看板に何が書いてあるかはこの際どうでも良いのだ。あと問題なのはその材質である。角材なのはまぁ仕方あるまい。贅沢を言えば、ここも鉄製が良かったのだが、それでもアルミ合板を使用しているだけまだ良い方だろう。
「ねぇ、部長。今回の事件と茶道部の看板が何か関係あるの?」
「まぁ、多分ね」
またもや悪癖が疼き、私は明言を避けた。だが先ほどよりは多少なりとも自信のある仮説が頭の中で築かれつつある。後は足場をしっかりと固めれば、この仮説の完成も近い。
「澄川さん、悪いんだけど残りの部室にはみんなで回ってもらえない?」
「別に良いけど、部長が直接話聞かなくても良いの?」
もしも私の仮説が正しければ、残りの部には訊くべきことはあまり残っていないはずだ。そう、訊くのではない。私が今から言う台詞をそっくりそのまま伝えてくれるだけで良い。そのことを伝えると澄川女史は手帳を取り出し、
「それでは伝言のメッセージをどうぞ」
「今回の事件の犯人は無事見つけることが出来ました。警察に引き渡すかどうかは大学と検討中ですので、もし盗まれた物に心当たりのある部は盗品を保管している自治会室までお越し下さい……こんな感じかな?」
何一つ事実の含まれていない私の伝言に、澄川女史は首を傾げながらも手帳に書き記していく。だが察しの良い彼女は、少なくとも私がこの伝言で何をしたいのかは検討が付いたのだろう。手帳から顔を上げると「面白くなってきたね」と微笑み、ベンチでだれている麻生たちの下へと向かった。
「面白くなってきた……のかね」
思わず呟かずにはいられない。不謹慎な喜びを見出すミステリ好きの集まりが、この事件を結末まで能天気に楽しんでいられるかどうかは、KがMに何をされたかの一点に掛かっていると言っても過言ではない。もしかしたら、私たちはとんでもない貧乏くじを引かされたのかもしれないのだから……
4
人とはいつまでも同じ過ちを繰り返す生き物である。
それは個人単位の話のみならず、組織や国家、そして人類の歴史そのものにさえ言及出来る永久不変の真理だ。そんな当たり前のことを私は、今更ながらに感じてしまう。
もし仮に、私が社会学を専攻する学生であったなら、あるいはこの場が国際関係論の講義を行っている教室であったのならば、戦争の愚かさを嘆いているところだろう。
だが、残念なことに私は明治文学もろくに読まない不良文学部であるし、私が腰を下ろしているのはいつもと変わらぬ食堂<飯亭しゃもじ>の奥座敷であるからして、私を嘆かせたものは昼の醜態などなかったかのようにワンカップを傾ける麻生の姿であった。
「……アル中」
「ニコ中には言われたかねーな」
反論できない私の指では、もうすぐで一箱に達しようかという数の煙草が挟まれては灰になっていた。
「今日は特別だ。いつ来るとも知れない連絡を待ち続けるストレスとの戦いの証なんだ」
「訳のわからん言い訳は良いから、少しは説明したらどうだ?」
それまで黙ってお新香を齧っていた琴似が嘆息する。全てを説明するのは、私の携帯が鳴ってからにしようと思っていたのだが、どうやら痺れを切らし始めているのは私だけではないようだ。澄川女史もこちらを見る目が上目遣いになっている。これはいけない。何かを急かしている時こそ、彼女はこうして無言で訴えかけるところがある。
「分かったよ……」
私は未練たらしく指に挟んでいた煙草を灰皿に押し付けると、腹を決めた。確かに中ノ島先輩からの連絡があろうがなかろうが、少なくとも当初の問題であったMの犯行に関しては大体の検討は付いている。
「本当はみんなに伝言してもらったブラフにKが引っ掛かるのを待ってから説明したかったんだけどな。まぁ分かっている範囲内で俺の考えを話したいと思う。まずはMとは誰だったのか? それは……」
「常盤さんだろ? 茶道部の」
何の躊躇いもなく、琴似が言ってのける。
いきなり出鼻を殴り飛ばされた私が言葉を失っていると、さすがに気の毒に思ったのか、
「何でお前が言っちゃう訳? 空気読めよ……」
「部長、仕切りなおして。ね?」
場を取り成そうとする二人の気持ちが逆に痛い。まぁ、確かに茶道部以外にあんな伝言を頼んだ時点で怪しいと考えるのがむしろ自然の成り行きであるのかもしれない。だからと言って人を見せ場に担ぎ上げておいて、横からそれを掻っ攫う真似をした琴似の行動を許したくはないが……
「まぁ良いさ……肝心なのはここからだ。琴似、少し黙ってろよ」
「へいへい」
「えー、琴似が言ったように、俺はMとは常盤さんだと思う。だけど、それを確信したのは茶道部を出た後だ。それまではあくまで嫌疑が強まったというだけに過ぎなかった」
「それは帰宅の状況からそう思ったの?」
澄川女史のおっしゃる通りである。
そもそも四つの部室の、どの部屋から物を投げ捨て始めたとしてもまずはその部屋のどれかに侵入しなければならない。しかし守衛に確認したところ、鍵は当日にはきちんと返却されていたし、鍵穴にも怪しい痕跡はなかったという。そうなった場合、一番手っ取り早い方法はその部屋に留まることであろう。
「真駒内さんが部室に戻った時には既に部室にいなかったという常盤さんだが、もし部室のどこかに隠れていたとしたら」
「どこかってどこだよ?」
「そこまでは知らない。だが、まぁ見た感じ隠れられそうなのはあの衣装ケースの中かな」
じゃあ中に入っていた衣装はどうしたんだとか、細かい指摘を入れられたら返答は全て想像になってしまう。真駒内さんが部室を離れている隙に、どこかへ預けるなり隠すなりしたのだろうと自己完結させて私は先に進む。
「さっきも言ったようにこの時点では可能性があるという段階に過ぎなかったから、大して詳しく質問もしなかったしな。ただ、麻生を抱えて事件の現場でもあるサークル棟の外へ出た時に、ようやく俺は常盤さんがMであることを確信したんだ」
と、ここで一旦言葉を止めた。私としては演出上の中断であったのだが、小休憩と受け取った琴似が席を立ってトイレに向かい、麻生は酒の追加注文をしだした。澄川女史だけは、私のささやかな演出を理解してくれていたのだが、琴似がなかなか戻ってこないので、彼女も「ごめんね」と言い残し、化粧室に消えた……小説のようにはなかなか上手くいかないものだ。だからといって、この程度のことで不貞腐れられるほど若くもない。二人が席を外している内に確認すべきことがある。
「なぁ、麻生」
「何だ? ウコンなら飲んできたぞ」
「いや、あれ呑んだ後に飲むんだろ?」
「あ、そうなの?」
「いや、そんなことよりだ。茶道部の常盤さんだけど、過去に何か他人に弱みを握られるようなことはなかっただろうか?」
「弱みって……後輩の俺も知ってるような弱みがあったとしたら、そんなの弱みでも何でもなく、ただの周知の事実じゃねえかよ」
酔っ払いのくせになかなか正論である。私だって麻生からそんな重大な情報が手に入るとは期待していない。ただ、風の噂くらいは耳にしたことはないのかと確認したかったのだ。古人曰く、火のないところに煙は立たない。
「まぁでも、弱みじゃないが、常盤さんに彼氏が出来た時はちょっとした話題にはなったな。ウチの茶道部は真駒内さんも含めて結構美人どころが集まっているから」
芸能人じゃあるまいし、惚れた腫れたで周りがざわめくとは下世話なものだと内心思う。まぁ大学で評判の美人となれば、それだけで将来に展望が開けたりする人も稀にいるのだし、あながち馬鹿には出来ないのかもしれない。
「じゃあ今もまだ付き合ってるのか?」
「いや、別れたよ。結局、半年持たなかったんじゃないか? あんまりすぐ駄目になったもんだから、相手の男が暴力振るったからだとか憶測が結構飛び交ってな」
破局にまで関心が集まるとは、本格的に芸能人ではないか。それも暴力が原因だの何だのと、芸能リポーターでもあるまいし根拠はあるのかと麻生に問い質すも、「そんなものはない」と一蹴された。
「確かにその真意は定かじゃないが、俺の知る限りで常盤さんにまつわるスキャンダラスな話題と言えばそれくらいだな。付き合っていた相手も偶然か今回の事件の関係者だし」
「な……それを早く言えよ。誰なんだ、相手は?」
「旭町先輩」
……聞いたことがない。そもそも高校でもあるまいし、先輩後輩のつながりが希薄な大学では学部が同じなくらいでは名前は愚か顔も見たことがない先輩など山ほどいる。一応は首を傾げてみる私に麻生が続ける。
「写真部の部長だよ。大会とかで何度か賞を取ってるし、学生新聞にも掲載されたことあるぞ?」
然も当然のように麻生は言うが、自宅のポストに放り込まれる新聞すらまともに目を通す機会のない私は、あんなテレビ番組欄もない名ばかりの新聞など読む気にならない。だが今回ばかりは、次に投函されたら目を通してみようかという気にさせた。未だ確証と呼ぶには程遠いが、それでも今回の事件に常盤さんと旭町先輩の二人が関係していたという事実はなかなかどうして興味深いではないか。そう、古人曰く、
「火のないところに煙は立たぬ、か……」
そうこうしている内に二人が戻ってきた。こうして小休憩もとってもらった訳であるし、もう途中退席は許さないという強い意志を以って、第二部の幕開けとさせてもらう。
「さて、どこまで話したっけな」
「猿に黍団子をやったところまでだな」
「そうそう。次に桃太郎は雉に出会いました……って、おい」
昨今の芸人にとっては必須スキルであるらしいノリツッコミというものを披露してみた訳だが、大爆笑とはいかなかった。慣れないことはするものではない。
「琴似、黙ってろ。そう、サークル棟の外、事件の現場を確認することで俺は常盤さんの犯行を確信したんだった」
「買出し行ってたから私はちゃんと見てなかったな。何かあったの?」
「あったんだよ、澄川さん。物を投げ捨てた時に出来た痕跡……さすがに布団の跡はよく分からなかったけれど、文芸部の飛び散ったコーヒーの粉と茶道部の窓から捨てられたと思っていた看板の痕跡、この二つだけで十分だった」
現場百遍とはよくいったものだ。何かあればと期待ありきで調べた訳であるが、あそこまではっきりと証拠が残っているとまでは思っていなかった。別に現場保存に目を光らせる人間もいなかったのだから、常盤さんとしては痕跡を消すチャンスはいくらでもあった筈である。なのにこうして私に見つかっているということは、彼女自身、自らの落ち度に気付いていなかったのだろう。
「思っていた……ってどういうことだ、部長? 茶道部の看板は違う部室から捨てられたってことか?」
「良い質問だな、麻生。進行しやすくて助かる。そうだ、茶道部の看板は茶道部の窓から捨てられたんじゃない。恐らくは写真部の窓から、茶道部の窓下に向けて投げられたんだろう」
「根拠が聞きたいね。この件に関してはあるんだろ?」
珍しく真面目な麻生に、私は勿論だと請合う。というか、ここでも根拠がなければ全部私の妄想になってしまう。机上の空論同好会ならそれでも良かろうが、私たちは本格を標榜するミステリ同好会なのである。自然、話す言葉も勢い付いて来る。私は煙草を咥えると、
「茶道部の看板がどうして写真部の窓から捨てられたと言えるのか。それは文芸部の窓からコーヒーの粉がヒントになった」
「ああ、窓から捨てられて袋が破裂して飛び散ったのね?」
「そう。捨てられたものは中ノ島先輩も言っていたように既に回収されていたけど、さすがに粉までは掃いていなかった。なぁ、琴似?」
「喋っちゃ駄目なんでしょー?」
わざとらしく口を尖らす琴似。先ほどのことを本気で根に持つほどガキではないし、私もこんな安い挑発に乗るほど血気盛んではない。が、イラっとすることには変わりない。平静を装っても眉間の辺りが強張るのが分かる。
「分かったよ、怒るなって。確かに地面に粉が飛び散ってたな。その上から茶道部の看板が落ちた跡がこう、漫画みたいにクッキリと……」
ヘラヘラ笑っていた琴似も言葉を飲み込む。
「気付いたか、琴似? そうなんだ。コーヒーの粉が飛び散っている地面に看板の跡が残っていた。つまり、茶道部の看板はお隣の文芸部からコーヒーの袋が捨てられた後に投じられたんだよ」
「でも、部長……」
「何、澄川さん?」
「確かにその話からすると、コーヒーの袋の後に看板って順番は間違いないと思うけれど、それ以上の断定は出来ないんじゃないの?」
「まぁ、現場の痕跡からは出来ないね。ただ、今度はどうやって常盤さんが各部室に侵入したかってことを考えると、看板はやっぱり最後に捨てられたとしか思えなくなる」
「進入経路かぁ。そう言えば、全然考えてなかったね」
私の紫煙に触発されたのか、澄川女史も煙草を取り出す。脇に置いたバッグを探っていた彼女にライターの火を差し出しながら、私は先を急ぐ。
「本当は部室の鍵くらいは複製しているかもしれないけれど、常盤さんが四室分全部持っていたっていうのはナンセンスだ。となれば、正攻法で常盤さんが侵入出来る部室は自分の所属する部室のみとなる。とすれば、彼女はどうやって他の部室に侵入するか……その方法は限られてくる」
「まぁ、普通に考えれば窓からだよな。換気用にちょっとしか開いてないとはいえ、壁をぶち抜いた後に左官して直したり、高度なピッキング技術を修行の末に習得しましたというよりは現実的だわな」
「そういうことだ。じゃあ窓から隣にお邪魔しましょうと決めた常盤さんは、どうやって隣の部室に入るだろうか。力技で押し切るなら、頑張って侵入するというものがあるが……」
「あの窓を常盤さんが自力で? そりゃかなりリスキーだぞ。部長は見たことないから分からんだろうが、常盤さんは小柄なんだよ。隣の窓との距離って言ったら自分の身長の倍はあるぜ」
ということは常盤さんの身長は150センチ前後といったところか。最近の若者は竹の子みたいにすぐ伸びると、いつか講義中に教授が言っていたが、それでも女性の平均身長をやや下回る程度のものだろう。まぁどっちにしろ、彼女が茶道部に所属する以前はロッククライミング部のエースとして鳴らしていたなんて意外な過去でもない限り、自力説は蛮行であり、現実的ではない。
「と言う訳だから、常盤さんは何か道具を使って移動したと考える。この方法は窓が普通のタイプなら出来ない芸当だ。ただサークル棟の窓は外倒し窓だった。外倒しの窓枠を目一杯倒して……」
「そこに橋をかけたんだ……! 看板の橋を。ね、部長?」
ご名答、私は頷く。
「事件の流れは恐らくこんな感じだろう。
まず用事を言いつけて真駒内さんを部室から遠ざけた常盤さんは、衣装ケースの中に隠れて帰ってきた真駒内さんをやり過ごす。送られたメールから先に帰ったと信じ込んだ彼女は部室に施錠をして帰宅する。そして二部の学生もいなくなる深夜に常盤さんは、自分たちの部の看板を使って、まずは隣の文芸部の窓をこじ開ける。開けた窓枠と茶道部の窓枠の上に看板を乗せて即席の橋を掛けた彼女は文芸部に忍び込み、適当な何かを窓から捨てる。そして用事の済んだ窓は看板で押して閉める。後はこれを写真部まで繰り返せば良い」
一気にまくし立てて、喉が渇いた。缶コーヒーと大差ないドリンクバーのコーヒーでも仕方なく飲もうと腰を上げかけた私に、黙って聞いていた麻生が待ったをかける。
「ちょっと待て、部長。写真部まで繰り返してゴールって訳ではないだろう。部長の話で終わりなら、常盤さんは写真部に閉じ込められるぞ」
「だから、写真部が最後なんだろうな」
もっとも、この写真部を最後にしなければ成立しない今回の事件には疑問がない訳でもない。その最後の疑問を解決してくれるであろう中ノ島先輩からの一報が未だにないのは少し気掛かりだったが、私は座りなおすと続けた。
「文芸部のコーヒーと数学研究会のパイプ椅子を捨てたのは、恐らくカムフラージュだろう。看板だけ捨ててあったら、あからさまだからな。だが、写真部の布団はそれ以外にも意味はある。例え仮に、パイプ椅子や一眼レフカメラを捨てたところで役に立たないからな。彼女の逃走の役には」
「それって、まさか部長」
「そのまさか。やれって言われても俺は嫌だけどな」
三人の表情を見る限り、みんな嫌なのがよく分かる。それはそうだろう。三階という微妙な高さとは言え、その落下点に布団を六枚用意したとは言え、その上目掛けて飛び降りるなんて、火事でも起こらなければ誰だってしたくはないだろう。
「こうやって脱出までを想像すると、常盤さんが茶道部からスタートして順番に写真部まで侵入を繰り返したことが説明出来る。だから写真部の窓から使い終えた看板を茶道部の下目掛けて投げたと思ったんだ。犯行当時は暗くて、まさか看板がコーヒーの粉を踏んでいるとは思わなかったんだろうな」
こう考えると、茶道部は鍵の複製をしていなかったのかもしれない。もし仮にマスターキー以外の鍵が存在していれば、彼女はそんな危険な脱出劇を演じなくても、もう一度看板を使って茶道部まで帰れば済むのだから。
「しっかし、随分と手の込んだ真似をしたみたいだけど、常盤さんにとってはこの不法侵入と器物損壊は全部、フェイクなんだろ?」
「まぁ、Kのタレコミがあった以上はそうなるわな」
「あ、ちょっと待て。写真部の窓はどうやって閉める。頼みの看板は放り投げたあとだぞ?」
「枕投げだよ」
「はぁ?」
「布団と一緒に枕も捨ててあったって言ってたろ? その枕を下からぶつければ窓くらい閉まるだろう。弾だって六発はあるんだし、それほど難しい話じゃないさ」
補足も終えて、私はそそくさと奥座敷を後にした。口ではいかにも簡単に窓は枕で閉められるように答えたのだが、実際のところはよく分からない。外倒しの窓を枕だけ閉めるなんて奇抜な戸締りをした経験は生憎と覚えがない。何か指摘される前にさっさとドリンクバーに非難するのが得策だ。
「……部長は常盤さんの本当の狙いが何か検討付いているの?」
カップにコーヒーが溜まるのをぼんやりと眺めていたら、横に澄川女史が立っていた。ちなみに彼女のお目当てはコーヒーではなく、こちらもお代わり自由のソフトクリームである。二皿分のソフトクリームを用意しているところを見ると、どうやら私も別腹のお付き合いをすることになりそうだ。女性の心理などまるで分からない私だが、「一人だけでデザートを食べるのは、お一人様一つまでの特売品をそ知らぬ顔で二つ買うくらいの勇気がいる」と語る澄川女史の意見を尊重して、彼女が食後のひとときを甘味で楽しむ際にはお供するのが慣例となっていた。翌日に支障が出るまで酒を飲む麻生や、お新香ばかり齧っている琴似と違い、デザートに抵抗のない私にとっては何てことはない。
「いや、そっちの方は証拠と呼べるようなものもまるでないから……」
適当にはぐらかしてみるが、トッピングのチョコチップを振り掛ける澄川女史の横顔はあまりご納得されていない様子だ。ただそれ以上は彼女も追及してこなかったので、私も黙っていることにした。本当は何も考えていない訳ではない。下種の勘繰りの域を出ないものだが、先ほど麻生から聞いた話を追加して考えると、もしかしたらいう気がしないでもない。
そもそも、常盤さんが施したこの大掛かりなカムフラージュは、写真部に布団がなくては成立しない計画である。つまり彼女は写真部に布団があることを知っていたのだ。大学でも評判の美人であるらしい常盤さん、そして破局の原因に暴力が噂される元彼氏の旭町先輩、そして彼女が今回のような大事を起こしてまでしなければならなかった何か……ピースの足りないパズルを無理やり組み立てようとすると、私の脳裏に出来上がる画は犯罪とは言え、余りにも下劣なものだった。
「電話が来れば全てが分かる」
そう自分に言い聞かせ、コーヒー片手に腰を下ろす私を見計らったかのように、携帯のバイブレーションが着信を知らせた。中ノ島先輩からである。ツーコール分で気持ちを落ち着かせると電話に出た。
興奮気味に話す受話器越しの先輩から伝えられたことは二つだ。こちらの思惑通り、ブラフに引っ掛かり神妙な面持ちの旭町先輩が自治会室を訪れたこと。そして、唾棄されるべき私の思い描いた青写真が、事実と寸分違わなかったことを認める旭町先輩……いや、旭町の自白だった。
5
それからの数日間は非常に大変であった。
旭町が中ノ島先輩に自らの罪を洗いざらい自白したことで、この問題は私たちミステリ同好会や自治会の手をすり抜けて、大学全体の問題となってしまったのだ。当初は自治会で内々に処理しようと考えていた中ノ島先輩だが、しかし大学の介入を許したのも無理からぬことであろう。何せ、旭町の自白は、この当時世間を騒がせていた事件に準ずるものを孕んでいたのだから。
「お待たせ、部長」
初めて入る喫茶店で読書に没頭していて私を呼ぶ声がする。別に面白い本だった訳ではない。他にすることがなかっただけだ。文庫本から顔を上げると、向かいの席に澄川女史が座っていた。注文を取りに来るウェイトレスに澄川女史がパンケーキとアイスコーヒーを注文する。もうかれこれ一時間以上はコーヒー一杯で粘っていた私も、さすがに申し訳なく思い、抹茶パフェをオーダーした。こんな時にでも甘いものに目が行くのは女性の性であろうか。ともあれ、別腹のお供だ。
「常盤さんは、どうだった……?」
言うまでもないが、今日は珍しく二人きりだからといってデートの類ではない。間逆といっても差し支えない、決して愉快ではない用事に赴いていたのだ。何も小粋な会話を挟み込む必要はない。私は率直な質問をぶつけた。
「思っていたよりは大丈夫そうだった……当然、大丈夫ではないんだろうけど、気丈な人」
だが、語る澄川女史の表情は暗く、決して楽観出来るほど大丈夫ではないことだけは切実に伝わってきた。あの後、中ノ島先輩から常盤さんが休学届けを出したことを聞いた私たちは、事件に関わったものとして、彼女に一目だけでも会っておこうということになった。ただ、常盤さんを取り巻く現在の状況を鑑みても、四人でドヤドヤ詰め掛けて良い訳もなく、同性として澄川女史に代表して会ってもらい、そして私は肩書きだけの名ばかり部長として、澄川女史に同行することとなったのだ。
「大学からも色々と人が訪ねてきて大変だったんだって。笑ってたよ……みんな事実を隠すのに必死そうで滑稽だなぁって」
「彼女には事実を公表する権利も、旭町を裁きの場に立たせる権利もある。だけど、それをするには彼女がまた傷つかなくちゃならない」
「それが一番辛いのにね……本当、救いがないよ」
救いがないという澄川女史の言葉に、私は返すものを持ち合わせてはいなかった。自治会も大学も、常盤さんを救うことはしなかった。そして私たちもまた、彼女を救うために動いたのではなかったのだ。そういった意味では、私たちも彼女に軽蔑されて然るべき立場にいるのだ。
「……部長は、気付いていたの?」
注文した品が揃い、どこか義務的にスプーンを口に運んでいた私を澄川女史が見つめる。上目遣いで視線を投げかける時の彼女に嘘を付くことなど、気の小さい自分にはとても出来ない。正直に告白する。
「まるで、根拠がなかったから。でも、予想だにしなかったと言えば嘘になるよ」
旭町の自白を総合すると次のようになる。
旭町と付き合っていた常盤さんは、ある時性交渉の現場をカメラで撮影されてしまった。これが恋人同士という立場から合意の下で行われたのか、それとも旭町の盗撮によるものなのかまでは分からない。とにかく、そうした出来事もあってなのか旭町から心が離れた常盤さんは別れることを決意するが、これは決して円満なものではなかった。旭町は彼女に固執し、性的な関係を強要したのだろう。その写真をネタに強請られたということだ。
そして、やむなく旭町の要求に応じていた常盤さんを見て、旭町は愚かにも更なる欲望を抱いたのだ。布団のある部室での集団暴行……際限なく続く恐怖を目の当たりにした常盤さんは、とうとう自ら行動を起こすことを決意したのだ。看板で橋を掛けて写真部に忍び込み、写真を奪う。彼女の計画は成功したのだ。少なくとも、私たちが調査になど乗り出すまでは……
「全ては言い訳にしかならないけれど、俺としてはK……旭町の正体を暴くことで全てが片付くと思っていた。自治会の中ノ島先輩の耳に入ったとなれば、旭町だって大人しくなる。ああいうタレコミをした以上、旭町が恐喝のネタを失ったことには確信があったから」
言うまでもなく中ノ島先輩にタレコミをしたKは旭町だった。事件の後、写真が無くなっていることに気付いたこの男の憔悴たるや幾ばくのものであったか。知りたくもないが、予想は付く。形振り構わずあんな露骨に怪しい電話を掛けるくらいだ。旭町としては、常盤さんに釘を刺したつもりだったのだろう。自治会が動いて、もし不法侵入がお前だと分かればそこまでして隠したかったネタも明るみになるぞ、と。だが旭町の思惑は少しばかり外れた。中ノ島先輩が私たちに依頼して、本気で事件を調べたのだ。
確かに私たちの調査は、旭町という外道を白日の下に晒すことは出来た。ただ、それは常盤さんがあそこまでして隠したかったことまで道連れにする諸刃の刃であったのだ。それにもかかわらず、私はその刃を振るってしまった。
「それ聞いて、少し安心した。もしかしたら、部長は部室の為なら止むを得ない犠牲だと思ってたのかと……一瞬だけ、思ったりしたから」
「それだけは、ない。誓っても良い」
お互い視線を逸らすことなく、たっぷりと数秒。ようやく澄川女史の眼差しが緩んだ。
「そう……それなら、良いんだ。ごめんね、部長。変なこと言って」
「いや、良いんだ。常盤さんにだって、そう思われても仕方ない。覚悟はしてるよ」
「常盤さんは、部長や私たちのことをそうは思ってなかったよ。むしろ、心配してくれていた」
「心配?」
思わず訊き返してしまう。そう言われて真っ先に思いつくのは写真部からの報復だった。当然のことながら、旭町をはじめとして集団暴行に関わったとされる写真部の人間はみな退学処分となっている。ここは私の予想が外れていた点であり、私は写真部全員が関与しているものとばかり考えていたが、どうやら新入部員である一年生だけは集団暴行とは関わりがないらしい。しかしその一年生にしても、自分の所属する部を廃部に追い込まれたことには違いないのだ。それだけでも私たちは怨恨の対象になるのではないだろうか。
だが、常盤さんの考えはそうではなかったらしい。ようやく硬い表情も崩れてきた澄川女史が、テーブルの上に何かを置いた。見た限り、小さめの茶封筒という以外には何の変哲もないそれを眺めていた私に、
「常盤さんから部長に。中身は、ネガだよ。写真は破り捨てたからもうないんだって」
「……どうして、俺に?」
何のネガかは今更聞くまでもない。
だが、どうしてそれを私に託すのか。常盤さんの意図が読めず、封筒を手にすることすら出来ずにいる私に、澄川女史はゆったりと微笑んだ。
「常盤さんが心配してくれていたって証拠だよ、部長。自分は休学したし、今は復学するつもりもないから良いけれど、これからも大学に残る私たちは色々と大変になるだろうからだって」
確かにわずか数日間であるが、色々なことがあった。
今のところ、私たちは大学の職員に事件に関しては決して他言しないように念を押されただけで、札束で頬を叩かれたり、親類縁者が人質に捕られたりはしていない。言われなくても、今回の事件を吹聴するつもりなど微塵もなかったが、事件に対して隠蔽という決断を下した大学側が今後、私たちをどう扱うかは定かではない。現に私は、当初の約束通り部室を与えるという中ノ島先輩の申し出に対し首を横に振っていた。その背後には大学の人間が糸を引いているのではないかと思えてならなかったのだ。
「もし今後、大学の気分が変わって私たちの学生生活に危害が及ぶようなことがあれば、このネガを役立てて欲しい……常盤さんが、そう言ってたよ」
「いや、でも」
「部長」
澄川女史が机から身を乗り出すと私の腕を取った。情けなくも為すがままの私の手が茶封筒の上に添えられた。
「受け取って。私は常盤さんに頼まれたんだから。これは常盤さんの意思なんだから」
「……常盤さんの意思か」
そこまで言われて、なおもこの茶封筒を付き返せるほど私は冷血漢でもなければ恥知らずでもない。恐らく二度と開くことはないだろうその封筒を、私は確かに受け取った。これを私たちに託してくれた常盤さんの気持ちさえ頂ければ、封を切る必要などないだろう。後はただ、誰の目にも触れぬよう、そして私さえその存在を忘れてしまえば良いだけだ。努めて忘れるのだ。
気付くと、パフェのスプーンがアイスクリームの海にすっかり沈み込んでいた。澄川女史の頼んだアイスコーヒーのグラスも盛大に汗をかいている。
「あぁ……俺がうだうだしてる内にパフェがすっかり溶けちゃったな」
「パンケーキも硬くなっちゃった。部長、どうしてくれるの?」
面目ないと頭を下げると、澄川女史は笑った。普段どおりの変わらない彼女の笑顔を見ることで、ようやく事件が終焉を迎えたことを感じた。
結局はこういうことなのだろうか。例えば、溶けたパフェを冷凍庫で凍らせてもそれはもうパフェではない。冷めたパンケーキをレンジに入れたところで、それは焼きたてに戻る訳ではない。クラシカルに言えば、零した水は決して盆の上に戻ることはないといったところか。そして、零れた水に見て見ぬ振りをするよりは拭いてあげた方が親切かもしれない。ただ、それだけだ。水を汲みなおす術を持たない人間にはそれだけだ。
「行こう、澄川さん。別腹はどこか違う甘味処で埋め合わせるよ」
グラスを傾けて、溶けて液体になったパフェ流し込むと私は伝票を掴んで席を立った。口の中が甘ったるい。店を出たら自販機を見つけよう。そして、不味い缶コーヒーで口を濯ぎたい。まずはそれからだ。そして明日からは、部室を持たない同好会活動がまた続いていくのだ。
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